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第9回 大鏡 六十五代 花山院

原文は松村博司校注『日本古典文学大系21』(岩波書店)より転載。原文の表記を一部を修正している。 原文
原文は松村博司校注『日本古典文学大系21』(岩波書店)より転載。原文の表記を一部を修正している。

 干支が丙戌(ひのえいぬ)にあたる寛和2(986)年、6月22日の夜、思いも掛けず驚きましたことは、帝が、誰にもお知らせにならずに、ひそかに花山寺にいらっしゃって、出家入道なさったことですよ。御年19歳。ご在位は2年。退位後、22年ご存命でいらっしゃいました。

 痛ましく哀(かな)しい出来事は、ご退位の経緯です。ご退位なさった夜は、内裏清涼殿の藤壺の上局(うえつぼね)というお部屋の小さい扉から外へお出になったそうなのですが、有明の月がたいそうあかあかと照らしていたので、「すっかりあらわで丸見えだな。どうするのがよいだろう」と帝がおっしゃったところ、「だからといって、お取りやめになるようなことはできませんよ。すでに三種の神器の神璽と宝剣が東宮の方にお移りなさってしまった今となっては」と、粟田殿藤原道兼様が急(せ)き立て申し上げなさったというのです。

 それには理由があって、まだ帝が内裏をお出ましになられるより先に、道兼様は自分で神器を取って、東宮(一条天皇)の御方にお渡し申し上げなさっていたのです。だから帝がいまさら内裏へご帰還して中へお入りなさるなどということは、絶対あってはならないとお考えになり、あのように申し上げなさったとのことでした。

月岡芳年「つきの百姿 花山寺の月」(国立国会図書館蔵)幕末から明治を生きた奇才の絵師月岡芳年が、その最晩年に月にまつわる貴族や武将の古典的題材を百選んで描いた名作。二十日余りの月が、満月として形象され、花山院を照らし出す
月岡芳年「つきの百姿 花山寺の月」(国立国会図書館蔵)幕末から明治を生きた奇才の絵師月岡芳年が、その最晩年に月にまつわる貴族や武将の古典的題材を百選んで描いた名作。二十日余りの月が、満月として形象され、花山院を照らし出す
月岡芳年「つきの百姿 花山寺の月」は 国立国会図書館デジタルコレクション で閲覧できます。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1306351


帝19歳、はかられ突然の出奔

 花山天皇(968~1008年)は永観2(984)年即位で、まだ十代の若者だ。一つ下の愛妃・弘徽殿(こきでん)の女御藤原忯子(しし)が、御子を宿したまま、前年の寛和元年7月18日に薨去(こうきょ)したのが運の尽き。世の人々は嘆きに沈み、年が明けても、もののさとしなど異変が続く。帝は、女御とのはかない縁を思い、懐妊のまま亡くなった「罪」の重さを憂えて、仏道への思いを深めていく。

 良源の弟子花山の厳久(ごんく)阿闍梨を内裏に召して説経を聴き、「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者」(妻も子も宝も王位も、臨終の時にはあの世に連れては行けないものだ)という句を口ずさむのが帝の日常だったと『栄花物語』は誌す。

 6月22日から翌日へと移る深更、突如帝は、内裏の清涼殿夜御殿(よるのおとど)(帝の寝所)の北に位置する藤壺の上局から脱出した。出家が目的である。皓々と照る月影を「まばゆく」思って困惑する帝だったが、折しも「月のかほにむら雲のかかりて、すこし暗がりゆきければ、『我が出家(すけ)は成就するなりけり』とおぼされて歩みいでさせたまふ」と『大鏡』は語る。

 ここで彼は、ふと、破り捨てずに残していつも眺めていた、亡き女御の手紙を思い出す。「ちょっと待て」と取りに帰ろうとすると、道兼が今度は「いかがお考えになられたことか。いまを逃すと、きっと邪魔が入りますよ」と「そらなき」(嘘(うそ)泣き)をしたという。

 『古事談』によれば、帝は、内裏中央最北の「貞観殿(じょうがんでん)」の「高妻戸(たかつまど)(両開きの扉)より躍(おど)り下(お)り」、北の陣・朔平門(さくへいもん)を出て土御門大路を東へ向かったという。

 花山院が土御門町口(町尻小路〔現在の新町通〕との交差点)の安倍晴明邸の前を通ると、晴明はすでに退位の天変を見抜いており、手を叩き声を上げたと『大鏡』は描く。帝の耳に届いたかどうか。ともあれ目指すは山科、僧正遍昭開基の花山寺(元慶寺)である。ちなみに『大鏡』は、190歳の大宅世継(おおやけのよつぎ)が、雲林院の菩提(ぼだい)講で再会した180歳の夏山重樹(なつやまのしげき)らに歴史語りをする設定の物語だが、雲林院は、遍昭が元慶寺の別院とした寺である。

 史書はこぞって、この出家が道兼とその父兼家の陰謀だと説く。『古事談』によれば、道兼は帝の悲しみにつけ込み「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者」など「世間無常の法文」を書いてお見せし、お供します、「もろともに」出家しましょうとそそのかしていたらしい。厳久も花山寺に随行し、院の剃髪(ていはつ)を行った。

 ところが道兼は、帝の出家を見届けると、態度を一転、父の兼家に「かはらぬすがた今一度見」せてから戻ってきますと言って「逐電」。姿をくらましてしまった。花山院はようやく「其(そ)の時に、『我をはかるなりけり』とて涕泣し給ふ」。いかにも迂闊(うかつ)であったが、院の怨(うら)み言は『大鏡』も全く同じ。真実の呻(うめ)きであった。

 跡を追い、朝方駆けつけた権中納言義懐(よしちか)、権右中弁惟成(これしげ)らの忠臣は出家。一方「粟田殿は、五カ月の内に、五位の少弁より正三位中納言に至る」。『古事談』はその異常な出世ぶりを付言して揶揄(やゆ)する。為政者兼家も、帝の出奔という異常事態をなぜか冷静に受け止め、都の警固(けいご)など、すぐにしかるべく対応した。

 『大鏡』も道兼の面従腹背の「おそろしさ」を嘆じつつ、我(わ)が子の連鎖出家を危惧(きぐ)した兼家が「いみじき源氏の武者達」を随行させて守護したと語る。用意周到、陰謀の傍証だ。厳久も兼家の信認を得る。

 兼家は、ひどく不仲だった兄兼通が死に、円融天皇女御の次女詮子が御子を産んで、やっと運命の潮目が変わった。数え7歳のその御子が、この事件後、一条天皇として即位する。だから逆に、花山天皇をめぐる悪評、例えば即位の日、馬内侍という高御座の帳をかかげる役目の命婦を「高御座の内に引き入れしめ給ひて、忽(たちま)ち以て配偶す」(『古事談』)などという危うい奇行伝承も、政治状況が招いた風評被害として、割り引いて考えたい。

 じじつ院は、出家後、仏道修行に励んだ。逸話も多い。観音が三十三身に変化するという仏説を数の根拠とする霊場、西国三十三所中興の伝説は、まさにその象徴である。


花山寺(元慶寺)(京都市山科区)

花山寺(元慶寺)の鐘楼門。竜宮造りで門の上層には梵鐘がある(京都市山科区)
花山寺(元慶寺)の鐘楼門。竜宮造りで門の上層には梵鐘がある(京都市山科区)
花山寺(元慶寺)地図
花山寺(元慶寺)地図

 訪ねる道は、住宅地の道や旧道が複雑に交錯する。出合う人に尋ね尋ね、やっと花山寺(元慶寺(がんけいじ))に。白い壁の鐘楼門が美しい。
 門をくぐると、樹木の生い茂る境内。強い日差しはさえぎられ、涼やかに石畳の参道が伸びる。本堂前の植え込みの中に「花山院法皇 御落飾道場」と刻んだ石碑が立っている。
 愛妃を亡くした失意の中で、花山天皇は計略で退位させられる。在位わずかに2年、まだ19歳、その無念、いかばかり…。
 花山寺で出家した帝は、その悲憤を沈めるように仏道修行に励み、奈良時代に始まった「西国三十三所観音巡礼」を中興したと言い伝える。その伝承を裏付けるように、帝ゆかりのこの寺は、三十三所の番外札所として知られる。折しも今年は、三十三所草創1300年。番外のここにも、巡礼の人が、時をおかず一人二人と訪れる。悲運の法皇をしのぶ人たちでもあるのだろうか。

あらき・ひろし

荒木浩氏

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)

【2018年6月28日掲載】