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保阪正康氏 明治維新から150年の京都へ

保阪正康氏 ほさか・まさやす 1939年生まれ。同志社大時代、演劇研究会で特攻隊を主題に脚本執筆。著書に「三島由紀夫と楯の会事件」など多数。「ナショナリズムの昭和」で第30回和辻哲郎文化賞。


 明治維新から百五十年を経て、「京都」にはどのような心構えが必要なのだろうか。
 「心構えなんてとくにありません」というかもしれませんが、それは京都が本来発信すべき情報を発せずに、単に観光都市としてのイメージに依存しているからではないか、と私には思える。
 あえて二つの指摘を試みたい。
 その一は、政治・経済・外交などのいわば<政治首都>は東京でよいのだが、文化・伝統の<歴史首都>は京都、という首都機能二元論を提唱していくことである。
 これは私が京都で学生時代を過ごしたときからの持論で、昨今の大阪都構想といった行政上の意味合いとはまったく異なる。本来なら明治維新時にこの二元論は実施されて然るべきだったのである。
 日本を訪れる国賓、公賓は、東京で政治的対話を行い、京都で日本の伝統文化にふれて、そして日本という国を総合的に理解してもらうのだ。国益上も大いに役立つし、国内的にも昭和の太平洋戦争に至るプロセスで、<歴史首都>が抑制の役割を果たしたのではないかと思えるのである。
 あの戦争には、特攻、玉砕作戦を見てもわかるとおり、この国に伝承している死生観と異なる戦略が用いられている。京都が培った倫理、道徳を無視した戦いだったのである。
 その二は、この国は天皇と権力者、天皇と国民の共存、共有の関係で多様な姿を持っているが、来年の生前退位による譲位を機に、上皇、上皇后ご夫妻の京都移転、あるいは天皇滞在の日数を増やせないだろうかということである。
 一昨年八月八日の今上天皇によるビデオメッセージでは、ご自身が象徴天皇像を確立することのために、どれだけの努力を続けてこられたかを淡々と話された。
 戦後社会で天皇像が曖昧な時代、今上天皇と皇后は、憲法でいう象徴天皇をとにかく三十年をかけて示された。この努力は並大抵ではなかった。まずこの努力に畏敬の念を持つべきではないだろうか。
 私は<天皇が時代をつくり、時代が天皇をつくる>と考えているが、平成三十年間でつくられた天皇像は、これまでの明治、大正、昭和の三代の天皇とはまったく異なると思う。
 大胆にいえば、三代の天皇は「国体」の下に「政体」を置いていたが、今上天皇は「政体」と「国体」を並列に考えているかのようだ。
 それもまた<歴史首都>と<政治首都>の共存を示しているのではないだろうか。

(作家)

[京都新聞 2018年04月20日掲載]