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(6・完)植民地支配

先住民を皇民化 色濃く残る「日本」の影
 京都帝国大(京都大)の台湾演習林跡は亜熱帯のチョウが舞う。古道は雑草に覆われ、ところどころで崩れそうになった石垣と出合う。「大津」「四日市」「小田原」…。見慣れた文字が地図に載っていた。先住民を管理するための派出所に日本政府の付けた名が、戦後もずっと地名として使われている。

抵抗と帰順と

先住民族の彫刻が施された自宅で日本植民地時代を回想するチングアンさん。戦前、日本警察官として村人に日本教育を行った(台湾・屏東県三地門村)
 「『先生おはようございます。今日は平地に塩買いに行きます。あさっての何時に帰ってきます』。帰ってくると『先生帰ってきました』と報告して…」。台湾南部の屏東県三地門村で暮らすカビヤガン・ルバルバさん(八二)は演習林のあった山間に居住するルカイ族の出身。「先生」とは日本の警察官のことだ。
 日清戦争以来の日本植民地時代、先住民にとっての五十年は抵抗と帰順の歴史だった。「蕃人(ばんじん)」と呼ばれ、近代化を押し付けられる。制圧のための警備道が敷かれ、平地住民と分離された。派出所と学校を襲撃して百三十四人の日本人を殺害した「霧社(むしゃ)事件」など、一九三〇年ごろまで反乱が頻発した。移住や異民族との接触、また開発に伴い、マラリアなどの伝染病がまん延。抵抗運動が弱まると「高砂族」と改称され、日本人として皇民化教育を施された。日本側の実務はすべて警察官が担った。
 「日本の警察来てから初めて米を見た。火は石を使っていたのが、マッチになった。先祖は家の床の下に埋葬してきたが、畑の外れの墓地に埋めるようになった。『文字が読めないと平地の人にだまされる』と言われ、日本語の勉強を受けた」
 夫のチングアンさん(八四)はパイワン族出身で、日本名は坂本謹吾。元日本警察官として、山奥の先住民の村にあった派出所に勤めていた。

日本人として

 「教師もしたし、医師も務めた。泥棒でも殴ればそれで済んだ。言うこときかない人は一週間、派出所の掃除。ひどいのは一カ月。でも村人は警察官を怖がって姿を見ると隠れた」。背筋を伸ばし、はっきりとした口調で答える。「高砂族という気持ちは全然なかった。やっぱり日本人という気持ちで戦っていた」
 自宅は伝統的な石造り。神聖なヘビ・百歩蛇(ヒャッポダ)の彫刻やイノシシのあご骨とともに、靖国神社と天皇家のカレンダーが張ってあった。日本の知人から送ってもらったという。「(天皇家に)今度お子さんが生まれるんでしょ。楽しみですね」

文化見直しも

 戦後六十一年。台湾には日本の植民地支配の影響が色濃く残る。お年寄りは思い出を日本語で話してくれた。一方で世代が変わり、一度は消えかけた独自文化のともしびを復活させようと、先住民の間に回帰運動も起きている。かつて焼き畑と狩猟で暮らし、神々が住むと信じた山々は日本時代に国有化され、その後台湾政府に引き継がれた。一部で山の返還を求める声も高まっている。
 チングアンさんはおよそ半世紀かけて収集したルカイ族とパイワン族の民芸品をもとに、約十年前に私設の博物館を開いた。ルバルバさんは民族衣装をつくり、現地の日本人学校などで先住民の語り部として活動してきた。
 「日本を思う気持ちと先住民の文化を大切にしたい気持ちが両方ある。自分の祖先が残したものをまた将来にも残していきたい」。険しいがそこに住む人を包み込んでいるような山々が、窓の外に広がっていた。

【2006年8月23日掲載】