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(9・完)ofuro |
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肌のぬくもり 国籍超え |
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| 銭湯の前で談笑する寺田愛さん(右)と喜久子さん。刺すように冷え込む京都の冬。「二人で初めて来た夜も寒かったよね」(京都市伏見区) |
お湯は、じんわりと温かかった。寺田愛さん(四三)=京都市伏見区=は結婚して間もない十七年前、銭湯に行き、義母の喜久子さん(七六)に背中を流してもらったのを、今も覚えている。底冷えのする師走だった。恐る恐る、湯船に入ってみた。熱い。つかっているうちに、体がぽかぽかしてきた。不思議な感覚だった。
愛さんはフィリピン人。水シャワーを一人で浴びる習慣の熱帯の母国では、湯船に入ったことも、家族と入浴したこともない。喜久子さんに何度か銭湯に誘われたが、恥ずかしくて踏ん切りがつかないでいた。「知らない人でも、背中を流す時には手伝ってあげてね」。喜久子さんはそう教えてくれた。
愛さんは二十年前、音楽グループのバックダンサーとして、興行ビザで来日した。東京の観光ホテルの舞台で毎晩四時間踊り、朝は喫茶店でアルバイトをこなした。当時、東京に住んでいた夫(四四)と知り合ったのはそんな時。わずかな愛さんの空き時間に、いつも会いに来てくれた。フィリピンへの帰省中には欠かさず手紙をくれた。
ルソン島にいる両親は当初、結婚に猛反対した。「ハイディ、まだ考え直せるよ」。父は戦時中、日本兵が現地の女性に暴行し、子どもを殺す姿を目の当たりにしていた。覚えている日本語は「バカヤロウ」と「コノヤロウ」。日本兵から浴びせられた言葉だった。
嫁の両親の反対ぶりを知った喜久子さんも「無理に結婚しなくても」と消極的になった。外国人を家族に迎え入れることへの戸惑いがあった。父親も「日本人の女性ではだめなのか」と泣いて反対した。フィリピンで開いた結婚式。新郎の両親の姿はなかった。
●不安胸に日本へ
夫の両親にどうあいさつしよう。長女を身ごもっていた愛さんは、不安を胸に日本へ向かった。伊丹空港に降り立った。驚いた。義父母が待っていた。愛さんの飛行機酔いがすっと覚めた。
「遠いところからよく来てくれたね」。喜久子さんは初めて会う嫁にそう言って、笑顔で花束を渡した。結婚を認めずに嫁と孫をフィリピンに帰すことはしたくない。その年に二十九歳のおいを亡くしていた。新しい命も大事にしたかった。
「感謝の気持ちを表す時は『お世話になっています』って言うのよ」。喜久子さんは愛さんに日本語や日本のマナーをたくさん教えてくれた。日本名「愛」の名付け親でもある。喜久子さんがもう一人、娘を産んだら付けようと思っていた名前だ。愛さんにとって喜久子さんは「本当のお母さんみたい」だ。
愛さんは今、大学時代に学んだ商学の知識を生かして京都市内の金融機関で働く。近くに住む喜久子さんは掃除、洗濯、弁当作りといった家事を手助けする。「ママはおばあちゃんのおかげで働ける。就職したら、おばあちゃんにお給料を渡してね」。愛さんは子どもにいつもそう言う。
一家に根付いたフィリピン文化もある。食前には手を合わせてお祈りをする。食卓には香草の入ったフィリピンのおかずと日本のみそ汁。「サラマッポ(ありがとう)」「ダリ、ダリ(早く準備して)」。日本生まれの三人の子どもは、タガログ語が分かる。
●「一緒に行こうか」
愛さんは今年から、介護二級の資格取得を目指して勉強を始める。専門用語が並ぶテキストの漢字に仮名をふり、講義は録音して何度も聴き直さないと、ついていけない、と思う。
それでも、資格を取りたい。喜久子さんにはずっと元気でいてほしいけれど、将来、体が不自由になることがあるかもしれない。フィリピンでは、お年寄りを子や孫が囲む大家族が一般的だ。
夕方、愛さんが仕事を終えて帰宅し、家事を手伝いに来た喜久子さんを交えて夕食を食べる。一休みして。「一緒に行こうか」。今は時折、愛さんが喜久子さんを、十七年前と同じ銭湯に誘う。
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【2007年1月11日掲載】 |
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