The Kyoto Shimbun |
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(9)秦泉寺由子 「竹染めのキルト」白こそ追求するべき世界異端視気にせず 必要だと信じて
糸や布を白く染める。切ったばかりの青竹を煮出した液に浸して。同じことをしている人は、たぶんいない。 「白いものを白く染めて何の意味があるのか」。ずいぶん異端視されたが、気にしなかった。白こそ、自分の追求するべき世界と信じてきた。 布を継ぎ合わせ、刺しゅうを施して1枚の美しい布に生まれ変わらせるキルト。美術館に収蔵されるような芸術品から、生まれたばかりの子どものために母親が作るおくるみまで、世界中で親しまれている。 「キルトは世界のワード。着物ならば一方通行。サリーでもそう。ほかの国の人たちは、恐れ入りましたというほかないけれど、キルトなら、世界中の人とコミュニケーションできる」と話す。だからこそ、欧米のまねではない、自分の本質、精神的な世界を表現しようとしてきた。それが白の世界だという。 戦後教育を受け、ものごころついた時から、米国にあこがれを抱いていた。日本全体がそうだった。生活、音楽、芸術。日本的なものをどんどん排して、欧米スタイルを取り入れた。「シンプルな家の中が、電化製品やら雑貨で、みるみるうちにごちゃごちゃになっていった」と振り返る。それが豊かさだと、多くの日本人が思っていた。 1965年、京都女子大卒業後、カナダへ渡った。目的はフラワーデザインを学ぶこと。9歳の時から茶道と華道を習っていた。ところが行ってみると、発想や色使いは優れていても、技術的に学ぶものはなかった。ベトナム戦争に揺さぶられる北米社会。価値観が大きく変わろうとしていた。工業化は必ずしも人を幸せにしない。だが、日本はまだ気付いていなかった。 初めてキルトと出合った時のことをはっきり覚えている。70年、カナダ・トロント。家具売り場に並ぶ画一的なベッドカバーの中に、2枚のキルトがあった。「細かな手作業にびっくり。日本人と違って不器用な人たちばかりだと思っていたから」。その後、余白などに豊かな精神性があるとされるアーミッシュキルトに魅せられ、独学でキルトを学び始めた。 「自分は何を表現したいのか」。いつも問いかけてきた。一つの答えは、素材。天然のものを使う。糸や布を自ら染めるため、89年、植物染料の豊富なインドネシア・バリ島に工房を作った。何百と色を作ったが、何かが足りない。着物地を使ったこともあるが、何かしっくりしない。 漆作家との競作が決まっていた。力強い作品に負けない色。「白しかない」。本当にどこかから声が聞こえたという。 最も白く染まる自然素材を探し、行き着いたのが竹。青竹の生命力が白を作る。 障子やふすま。かつての日本の暮らしには白の空間があった。戦後、徐々に消えていった。「私たちは白の前では厳かな気持ちになる。玉ぐしやしめ縄につける垂(しで)も白。必要な色です」。 バリ島と京都と今でも生活は半々。バリの自然の中に身を置くことが、創作意欲を刺激する。バリは探求、修行の場所。京都は暮らしの場。キルトを作る時「茶室に入れても大丈夫だろうか」と必ず問いかける。茶室が自分の基軸。 いま、図形化した文字を取り入れたコードキルトの古典3部作に取り組んでいる。「平家物語」「方丈記」ときて次は「枕草子」。「祇園精舎の鐘の声」は白地に赤い布でリズミカルに、「ゆく河の流れは絶えずして」は白地に黒い布で端正なイメージに仕上げた。 天然素材にこだわってきたが、最近はナイロン布も用いる。「天然素材との組み合わせで、時代の感触のようなものが伝えられたら」 [京都新聞 2006年1月22日掲載] |
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