The Kyoto Shimbun

(21)關聡志 「VERITE VIDA」

制約の中に理想を求めて冒険心忘れず 魂こめた建築に


「平成版の長屋」とも言える關さん設計のマンション「VERITE VIDA」(堺市)

 今にも動き出しそうな建物だ。白いコンクリート壁の立体物が、ふわっと青空に浮かび上がる。凹凸が多いデザインは少し奇抜に見えるが、ずっと眺めていると、この場所にこそふさわしいと思えてくる。堺市に建てたマンション「VERITE VIDA (ヴェリテ・ヴィータ)」は、建築家關聡志さん(42)の代表作の一つだ。

 「建物ができるまでは『クソッ、なんでやねん』の連続。施工主、土地、法律、予算など、建築は制約ばかりだから」。作品への満足度は平均3割、自分の家でさえ5割の満足しか得られないという。ただ不満足こそが建築の面白さであり、創作意欲の源だとも。「理想を追い求め続ける姿勢にこそ建築家の姿がある。自虐性がないとできない」と笑う。

 關さんが人前で「建築家になりたい」と初めて口にしたのは幼稚園児の時だ。建築設計事務所に勤める父親を喜ばせたいとの思いから出た言葉だった。仕事にひたむきな父親で、小学5年の時に見た姿は今も脳裏に焼きついている。

 「おやじは自分で設計した家を建てるため、神戸市内の傾斜地に土地を購入した。家が8割ほど完成し、家族全員で見に行った時、おやじは和室の敷居にベタッと顔をつけ、下唇をかみながら、狂いがないか調べていた。家にほおずりするような、あの時の顔が忘れられない。建築家はかっこええなって、心底思った」。その後、腎臓を患っていた父親は完成を見届ることなく、40歳で亡くなった。新築の家は人手に渡り、家族は一度も住めなかった。

 気がつけば、父親と同じ道を進んでいた。進学した大阪芸術大では、人生を決定づける運命的な出会いがあった。「入学式の日、背広姿の人が並ぶ中に、ただ1人、ひげを生やし、ジャンパー姿の先生がいた」。独立してまもない建築家高松伸さんだった。大学1年の夏、尊敬していた高松さんの設計事務所へ遊びに行ったのを機に、そのまま弟子入りした。35歳で独立するまで高松さんの下で働き、ものの考え方、建築の理論を吸収した。「先生の『建築を武器とせよ』という言葉は、今も肝に銘じている」

 手がける分野は、住宅やマンションをはじめ、病院や商業施設、福祉施設など幅広い。歯科医院を船のようなデザインにしたり、お年寄り向けのデイケアセンターをギリシャの神殿のような雰囲気にした。古い料理旅館を欧風レストランとして再生させた経験もある。

 「制約から新しいアイデアが生まれる」と言う通り、狭い路地にモダンな建物をつくる場面も多い。冒頭の「VERITE VIDA」は、究極の制約から生まれた。土地は間口11メートル、奥行き98メートル。まさに「死んだ土地」だった。ここに奥まで続く露地を伴った間口7・5メートル(1階5・5メートル)、奥行き91メートルの鉄筋コンクリート3階建てマンション(12戸)を設計した。「平成版の長屋」と呼ぶにふさわしい超細長建築だ。

 「バブル期に周囲が地上げされ、線のような土地だけが残された。家を建てるのさえ難しい条件で、建築家の力が試される仕事だった」。これにプロとして見事に答え、2003年度グッドデザイン賞を受賞した。

 「バブル崩壊を経験した我々の世代は、『建物は建築家の私物にあらず』という倫理観が深く刻まれてきた。どこかで自己規制し、冒険心が希薄になっている。しかし一方で、それだけで良いのだろうかとも感じる」

 神戸市で仕事をしていた時、ふと父親が設計した家を思い出し、30年ぶりに立ち寄った。増改築されていたが、阪神大震災を乗り越え、堂々と建っていた。「建築家が魂を入れ、本気で作ったものは必ず残る。そう信じている」

[京都新聞 2006年4月16日掲載]

美術、音楽、演劇、デザイン、パフォーマンスなど多様なジャンルの中から、次代を担う京滋ゆかりの表現者を選び、創作世界の広がりを紹介します。

關聡志(せき・さとし)
建築家。1963年岐阜県生まれ。大阪芸術大を卒業後、高松伸建築設計事務所に入所、96年に同所代表取締役。98年に京都市内で關聡志建築設計事務所を設立。住宅や病院、福祉施設、商業施設、インテリアなどを幅広く手がける。京都精華大非常勤講師。主な作品に「岡崎歯科医院」(98年、向日市)「北須磨デイケアセンター」(2003年、神戸市)などがある。京都市在住。

「人を感動させる建物をつくりたい」と語る關さん(京都市下京区・關聡志建築設計事務所)

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