連載(4) 幻に夢かけた先人たち(上)岡本爺平氏
「大極殿跡」探しに情熱注ぐ 明治期の顕彰事業に道

 1895(明治28)年、平安京遷都1100年祭を2日後に控えた10月19日。向日神社の参道から東へ下った一角に、多くの人が集まった。長岡京大極殿跡紀念碑の建碑式。翌20日付の日出新聞は一面の下段で「…80余名にて郡内六人部神社祀掌祭主となり郡内各神社の神官参列して式を行ひ…向日町高等小学校にて祝宴を開きたり」と伝えている。

 この中で新神足村の岡本爺平(やへい)は、そびえ立つ石碑をひときわ感慨深く見上げたに違いない。  岡本は、長く幻とされた長岡京の存在を実証した中山修一に先立つこと60年、大極殿跡を探し求めた地元有志の中心的な人物だ。西国街道沿いで代々油屋を営み、文化にも親しんだ家に生まれた。

明治時代、長岡宮城大極殿遺址紀念碑が建てられた北大極殿公園。住民の憩いの場になっている(向日市鶏冠井町大極殿)
 日清戦争間近の1892(明治25)年、すでに都を東京に譲った京都では、沈滞ムードを吹き飛ばそうと内国勧業博覧会の誘致と、平安京を開いた桓武天皇を顕彰する「平安京建都1100年紀年祭」の大計画が持ち上がった。乙訓でも桓武天皇が築いたもう一つの都、長岡京が注目された。宮城跡を保存顕彰する機運が高まり、地元有志が「長岡宮城大極殿遺址創設会」を立ち上げた。

 石碑を建てるべき大極殿跡を探せ。岡本は、その先頭で動き始めた。江戸時代の地誌数冊を調べた。長岡京に触れた記述を丹念に検討する中で、江戸時代中期の『閑田耕筆』に「西岡鶏冠井という里の田地の字に大極殿という地名があり、そこから古い瓦が出てくる」という一文を見つける。  現地にも出向いた。1893(明治26)年10月、林地で地面を堀ると古い瓦が本当に出てきた。大極殿跡の確信とともに調査成果をまとめた岡本の「長岡宮城私考」は、京都市の平安遷都紀念祭事務局へ送られた。

 しかし、その努力は一度、退けられる。翌94(明治27)年、紀念祭委員から乙訓郡役所に届いた手紙は「字は大極殿と称するも、古瓦位の証拠にては慥かならず…」。京都の本格的な歴史書を編み、平安京大極殿を模した平安神宮建設プランも描いた府の役人、湯本文彦を現地調査に派遣すると言ってきた。  岡本は引き下がらなかった。委員からの手紙を見た岡本は「この度、申し出た遺跡地は、決して疑わしい場所ではないと確信しております」という内容の手紙を郡役所に書き送り、湯本に面会する意向を伝えている。

 岡本と湯本がどんなやりとりを交わしたか、記録が残っていない。だが、岡本の説は湯本に十分伝わったようだ。この後、長岡京の大極殿跡の顕彰事業は、岡本の唱えた説に沿って進められ、後に大極殿祭も始まった。

 一連の動きを京都府立総合資料館の「乙訓自治会館文書」から明らかにした、向日市文化資料館の玉城玲子さんは「当時、歴史の権威たちに証拠が乏しいと指摘されても、自分で調べた長岡京の存在に確信を持っていた。単なるお国自慢じゃなく、真摯(し)な学問的態度のあらわれ。乙訓にそんな文化的な素養を養う土壌があった」と評価する。

 大極殿跡は、中山たちが着手した発掘調査で、石碑から南東百メートルに正確な位置が特定され、石碑と大極殿祭も移された。明治の先人がたどり着いた最初の「大極殿跡」は今、北大極殿公園として移り変わる町並みにとけ込んでいる。

 ふるさとに眠る「宮都」の存在を信じ、自ら発掘調査に心血をそそいだ故中山修一のように、在野の立場で遺跡に向き合い、幻に夢をかけた先人たちがいた。3回に分けて紹介する。(敬称略)
京都新聞 洛西版 2004年3月18日掲載
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