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葵祭 1 王朝絵巻の中心、斎王代

優雅の極み受け継ぐ 責任感脈々と

林和清さん

 葵祭の風雅な王朝行粧(ぎょうそう)のハイライトは、やはり斎王代列(女人列)。十二単(ひとえ)(五衣(いつつぎぬ)・裳(も)・唐衣(からぎぬ))姿で腰輿(およよ)の中に座すヒロインの額には、心葉(こころば)という金枝に銀の梅花の飾り金具。垂髪(おすべらかし)からは日陰糸と呼ぶ白い組紐(くみひも)の飾りが両脇に。檜扇(ひおうぎ)を手にしたその姿は、優雅を極める。

 その斎王代を中心に、花笠(がさ)を差しかけられ、色鮮やかな小袿(こうちき)をまとう命婦(みょうぶ)に始まり、最後の牛車まで続くあでやかな列は、御所から下鴨神社(下社)、そして上賀茂神社(上社)まで、約八キロの沿道を埋める観客を王朝絵巻の夢の世界へと導いてゆく。

 「この列に私は、新古今集の時代、和歌の名手で、多感な時期に賀茂の斎院(斎王)を務めた式子内親王の姿を重ねてしまう」と、歌人の林和清(45)。小学生のころ、小倉百人一首にある内親王の有名な「玉の緒よ絶えなばたえね…」の激しい恋の歌が、なぜか心に残り、その後、歌人となるきっかけともなった。

森川香絵さん(右)と母薫さん

 後白河法皇の第三皇女、式子内親王の生涯は、源平争乱の真っただ中。同母弟の以仁王の平家追討失敗、その後、身内の死が続くなど、身辺で始終ゴタゴタと不幸が続く。「だから、神とともにあった清らかな斎院の10年が、一番幸せだったと思うんですね」と林。「現世での恋も実らず、なんと苦しい人生を送られたのか、800年ほども前の内親王の思いが、眼前を通る斎王代列によみがえる」。祭りのたび、心揺さぶられるという。

 斎王代列は、太平洋戦争で途絶えた葵祭が戦後復活してのち、昭和31(1956)年に新しい行列として加わった。格調高い勅使列に華やかさをと、賀茂の斎院があったとされる櫟谷七野(いちいだにななの)神社ではなく、御所から出発するという形にアレンジして再興されたのだった。

 「有職(ゆうそく)故実の猪熊兼繁先生(元京大教授、故人)がお見えになって、斎王の代わりをと。高校3年生の時でしたねえ」と、初代斎王代を務めた荒田文子は思い返す。

 神秘的な体験をした。「私の時は、腰輿をほんとうに担いでいただいてね。ゆらゆら波をただようような、いい気持ちでした」。不思議なことだと今でも思う。「突然、沿道でみてくれている大勢の人の中から、あそこにあの人、そこに誰と知り合いがみんなわかった。そして、何を考えてるかまで」。垂髪に神が…。これがきっかけで、占いは天職と思いが至り、易学でライフコンサルタントをする今の仕事に導かれた。

39代池坊美佳さん(右)と初代の荒田文子さん

 平成6(1994)年、平安建都1200年の年に三十九代斎王代を務めたのは、華道家元池坊青年部代表の池坊美佳(37)。「全く自分とは別世界のことと思っていました。務まるのかと心配したのも事実ですが、大変光栄と、ずいぶん真摯(しんし)に向き合いました」と述懐する。

 「私の場合、雨が降って、落ち込みました。でも、いろいろな人から、慰めの言葉をいただき、しみじみ人の優しさというものに触れました。そして、いかに多くの人たちに支えられ、葵祭が続いて来たのか、思い知りました」。この季節になると、新緑のさわやかさとともに、葵祭は懐かしい、淡い思いとなってよみがえる。

 52代目となる今年の斎王代は、英語教室講師の森川香絵(26)。十二代を務めた母薫(58)と母娘二代の斎王代。「ずっとあこがれてきました。実現して夢のよう」という森川。「たくさんの人たちが受け継ぎ伝えてきたこの祭り。私も一生懸命務めて、教室で子供たちにこのすばらしさを話し、もし結婚して子供ができたら、またその子に受け継いでもらえるよう思いを伝えたい」と、話す。母の薫は「実家で、私の斎王代の写真を見て育ったんです。私の経験も参考にして、見事にお役を務めあげてほしい」と目を細める。

 王朝の優雅典礼を伝える行粧は15日午前10時半、悠久の歴史をたたえつつ、御所をたつ。(敬称略、「葵祭」は5回掲載予定)

[京都新聞 2007年5月8日掲載]