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(5)白骨街道

武器と同等の価値 治療薬、前線に届かず
 「戦争遂行、南方進出のため、武器と同じに大切だったのはマラリアの治療薬キニーネであった」。京都帝国大・台湾演習林の関係者が戦後、記している。「海軍の要請にこたえ…必死の(キナ樹の)採皮にとりかかった。軍部の激励の訓示を受けながら採皮は進行した」。大戦中、中曽根康弘海軍少尉(元首相)も京大演習林を視察している。  台湾演習林はどれだけキナを生産したのか。

賄えぬ生産量

ビルマ戦線で240人中80人が戦没した「安」第二野戦病院の記録には、傷病名の欄に「マラリア」の字が並ぶ
 京都大フィールド研の安藤信・助教授は一九九〇年の現地訪問を機に、京大農学部の地下倉庫などに残る資料を調査した。学生実習ノートを発見し、台湾演習林の植生、林業の様子を分析。しかし「キナ栽培のまとまった記録は散逸しており、関係者の追想記からたどるしかなかった」。
 注目したのは演習林の施行年報などの記録だった。四三年で年間約二十トンのキナ樹皮が製薬会社に売却予定とされ、一部は京大本部に送られた。「年間百五十トンに達した」という合致しない記述もあった。
 キナ樹皮を外国に頼った戦前の日本は約四百五十トン(三六年)を輸入。京大の数字は小さくもないが、開戦で南方に動員された大兵力を賄えたとは思えない。
 キニーネは糖衣の錠剤だが「苦く、食欲がなくなった」。京都で編成されビルマ(現ミャンマー)戦線に派遣された「安(やす)」兵団で衛生兵だった波多野一雄さん(八五)=京都市左京区=は地獄の日々を振り返る。
 ビルマ戦線の日本軍は四四年、ジャングルの鉄道沿いに撤退を続けた。道端の草むらにマラリアや赤痢で倒れた兵が累々とし、腐敗する。病んで座り込む兵は目や口にウジがうごめくが、追い払う力もなかった。
 白骨街道とも、靖国街道とも言われた。波多野さん自身、マラリア熱に苦しみながら、爆弾でできた穴に次々と遺体を重ねていった。食料も医薬品も底をつく。ほとんどの兵が感染した。「無駄死にでした。殺されに行ったようなものだった」

配給1人30錠

 同じ「安」兵団で、古畑文男さん(九六)=亀岡市=は軍医だった。所属の連隊約三千七百人のうち生還者は七百二十九人。「半分の兵は飢えとマラリアで死んだ」
 キニーネを最初、一人に三十錠渡した。マラリア予防には一日一錠を服用する。すぐに補充は途絶えた。
 奥地に向かうと異様な光景を目にした。疲れはて、はだしで歩く日本兵。古畑さんを見て「また死にに行きよる」と言い、不気味に笑った。半年後、自らその姿になった。「せめて薬があれば処置のしようもあったが、自分の体だけでは…」
 石垣島、西表島など沖縄・八重山諸島でも「戦争マラリア」の悲劇があった。四五年六月、軍の命令で、マラリアが猛威を振るう山間部などの有病地帯に強制疎開させられた島民三千人余りが命を落とした。

住民分配なし

 マラリアで亡くなった母と姉を原野に埋めた光景を、四歳だった篠原武夫・八重山戦争マラリア遺族会会長は覚えている。「悲しいという感情さえ起きなかった」。二歳の妹も死んだ。
 終戦前の石垣島で軍はキニーネを蓄えていたが、住民には分配しなかった。マラリアは終戦後も大流行し、一家全滅する家が相次いだ。
 海上輸送も難しい戦争末期に、台湾産キニーネはどう分配されたのか。実態は謎のまま。ただキニーネの量が不足していたのに、南方での戦争が無謀だったことだけは、各地で起こったマラリアの悲劇が物語っている。

【2006年8月22日掲載】