日本人の忘れもの 第2部

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京都発「日本人の忘れもの」キャンペーン第2部

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「日本人の忘れもの」記念フォーラム in 東京
万物に「八百万の神」見いだす

明治以降、日本人が近代化の中で置き去りにしてきたものを探る「日本人の忘れもの」記念フォーラム in 東京(主催、同キャンペーン推進委員会、京都新聞社)が6月4日、東京都千代田区のプレスセンターホールで開かれた。華道都未生流家元大津光章さんのいけばなパフォーマンスの後、大津さん、陶芸家の諏訪蘇山さん、公益財団法人奈良屋記念杉本家財団学芸部長の杉本歌子さんの3人が、自然や命に対しての思い、日々の暮らし方などについて話し合った。コーディネーターは京都新聞総合研究所特別理事で京都産業大教授の吉澤健吉が務めた。

いけばなパフォーマンス
華道都未生流家元 大津 光章氏
イメージ その1

日本人は仏教が伝来する前から、万物に「八百万の神」を見いだし、神が降臨する依代として樹木や石を祭ってきました。正月に松、竹、梅などを配して作られる門松飾りはその代表です。また、桜の「サ」は田の神、「クラ」は座。つまり田の神が降りてこられる場所で、酒と食べ物を供え、五穀豊穣を願ったのが、桜の木で花見をした始まりとされています。

東日本大震災では多くの方が被災され、今も大きな悲しみを抱いておられます。そうした方々のため、神仏なり、人々の思いなりがここに降りてきてくださいますように、という思いを込め、本日のいけばなでは、まず依代として青竹を真っすぐに立て、それにアオカエデ、スモークツリー、ダンチク、アジサイ、テッセン、オトメササユリを合わせました。

カエルの手「カエルデ」が転じたともいわれるカエデは、初夏にプロペラをつけた、かわいらしい果実を付けます。新緑に合うスモークツリー、別名「ケムリソウ」は、開花後に伸びた花柄が煙のように見えることから名付けられたといいます。クレマチスの仲間には、中国産のテッセンや日本産のカザグルマがあります。日本ではクレマチス属の総称としてしばしば「テッセン」が用いられていますが、本日は、梅雨のこの時期、花屋さんの店頭でよく目にする紫色のテッセンを使いました。

「散華」は仏教の儀式で、仏や菩薩がお越しになるときは天空から花が降るという仏教の教えに由来します。もともとは、ハスの花の香りによって場を清め、仏への供養をするためハスの花弁や生花を散らしていたようですが、現在、お寺の行事や法要などの際は、花びらをかたどった紙を散らすのが一般的です。本日は、皆さんに明日からまた元気になっていただけるよう祈念しながら、最後にこの散華の儀式を行いました。

パネルディスカッション
「いま、発信する京都のこころ」

自然への畏敬の念忘れた現代人 大津氏

イメージ その2
華道都未生流家元 大津 光章 氏
おおつ・こうしょう 1954年、京都市生まれ。華道都未生流五世家元・大津隆月の長男として生まれ、86年6世家元を継承。浄土宗高樹院19世住職、(公財)京都市芸術文化協会副理事長、(公財)日本いけばな芸術協会常任理事などを務める。古典と現代の接点を求め、野外、演劇、など多様な試みに挑戦している。

―大津さんは、いけばなの家元であると同時に僧侶でもいらっしゃいます。頂法寺(京都市中京区)、大覚寺(京都市右京区)、仁和寺(京都市右京区)など、京都には華道と関わりの深いお寺がありますね。

大津◉いけばなの起源は、仏教の伝来とともに僧侶が仏前に花を供えた、「供花」がルーツと伝えられています。私が住職を務める浄土宗高樹院(京都市左京区)は、1612(慶長17)年の創建ですが、1835(天保6)年の都未生流創流以来、歴代の住職が家元を継承し、私で6世を数えます。約40年前、市の都市計画整備を受け、東山区の三条京阪駅の近くから、左京区岩倉の現在地へ移転しました。

いけばなは花木の命を絶つところから始まります。命が宿るといわれる数珠を左手で繰りながら、右手に持ったはさみで花の命を絶つのは矛盾するようですが、植物も含め、自然から命を頂かずに生きられる人間はいません。自然に生かしてもらっていることに感謝し共生すべきなのに、現代人は経済効率ばかり重視し、自然への畏敬の念や節度を忘れてしまったように見えます。

目に見えない存在感じつつ成長 諏訪氏

イメージ その2
陶芸家 諏訪 蘇山 氏
すわ・そざん 1970年、京都市生まれ。京都市立銅駝美術工芸高で漆を、成安女子短期大で映像を学ぶ。京都府立陶工高等技術専門校・京都市伝統産業技術者研修陶磁器コース修了。2002年、4代諏訪蘇山を襲名。父は3代諏訪蘇山、母は12代中村宗哲。

―諏訪さんは、ご家族全員がものづくりに携わる環境で育ち、今も清水焼発祥の地・五条坂にお住まいですね。

諏訪◉初代諏訪蘇山は加賀藩の武士でしたが、明治維新後、九谷焼の絵付けを習い、東京で陶磁器の製造を始めました。明治政府のお雇い外国人だったフェノロサ、ワグネルらとも交流があり、美術工芸のことや化学の知識を用いた製造技術を学ぶと金沢に戻り、工業学校の教壇にも立っていました。1900(明治33)年、清水焼の起源である粟田焼の技術指導方として招かれたのを機に京都に移り住み、清水寺(京都市東山区)に至る五条坂に窯を持ったのは、さらに6年後です。当時は洛中にもまだ造り酒屋が多く、そのうちの1軒を買い取り住まいとした建物は、「酒屋格子」と呼ばれる太い格子が特徴的です。

父が亡くなり「大きな家に一人では寂しいでしょう」とよく言われましたが、私自身は先祖も一緒に暮らしている気分だったので心細くはありませんでした。私のめいっ子は小さい頃いたずらをして大人から「仏さんが見たはるえ」と叱られると、仏壇の扉を閉めに行きました。町内ごとにお地蔵さんが祭られ、地蔵盆の風習もある京都では、子どもたちも目に見えないものの存在を身近に感じながら成長します。大人も子どもも、自分が誰かに見守ってもらっているという安心感が、京都の町には今でもあるような気がします。

質素倹約に務める商家の暮らし 杉本氏

イメージ その3
公益財団法人奈良屋記念杉本家財団学芸部長
杉本 歌子 氏
すぎもと・うたこ 1967年、京都市生まれ。京都芸術短期大美学美術史卒。杉本家当主で保存会理事長の秀太郎さんの三女。重要文化財となった実家の維持保存のため、所蔵美術工芸品や史料の整理研究に従事。京商家の文化や精神を伝える講演活動を行う。京都造形芸術大非常勤講師。

―祇園祭の山鉾町にある杉本家住宅は、京町家の遺構だけでなく、商家の暮らしぶりを今に伝える生きた文化財ですね。

杉本◉呉服商「奈良屋」の創業は1743(寛保3)年。京呉服を千葉県内で販売していました。現在地に本店を構えたのは、1767(明和4)年。1864(元治元)年の蛤御門の変で焼失し、明治1870(明治3)年に再建されたのが現在の建物です。市内でも最大規模の町家ですが、明治時代の日本建築は評価が遅れ、2010(平成22)年にようやく重要文化財に指定されました。庭も翌年、国指定名勝に指定されています。

京都の商家では日々の暮らしにも決まりごとが多く、各家で代々伝えられてきました。わが家でも、家督を継いだ者が先代について書く「相続記」、年中行事や献立について記す「歳中覚」などは今も加筆され、「生きている古文書」となっています。献立一つとっても何日に何を食べると決まっていました。私が生まれた頃には、こうした食習慣は無くなっていましたが、商売をしていた頃は使用人が多くいましたから、献立が決まっているというのは無駄も出にくいですし、大変合理的であったのです。今の暮らしでは、食習慣は大きく変わりましたが、「始末した暮らし」の精神を見失わないよう、先祖が文書に書き残して、今でも私たち家族を導いてくれているように思います。

イメージ その4

―「始末する」の意味が東京では「片付ける」なのに、京都では「倹約する」ですね。

大津◉季節感やハレ(非日常)とケ(日常)の使い分けも、戦後の経済発展の中で私たちが忘れかけているものです。古くからある花屋さんに、最近は花を買うとき、季節の花にこだわらない人が増えたと聞きました。ハレとケの境界もあいまいになっています。私が子どものころ、繁華街はハレの場でした。両親とオムライスやフルーツパフェを食べに行くときは「よそ行き」を着たものです。今、繁華街に行くのに晴れ着を着る人はいませんね。二十四節気をさらに細分した七十二候で自然の移ろいを感じてきた日本人の細やかな感性と、めりはりのある暮らしが失われつつあるのが私には残念でなりません。

諏訪◉季節とともにある京都の行事は、準備も後片づけも手間がかかります。そういうことをずっと続けておられる家に共通するのは、おじいちゃんやおばあちゃん、お父さん、お母さんが楽しそうに作業されていることです。そんな大人の後ろ姿を見ているから、子どもも「私もしようか」と思うのかもしれませんね。

幼少時に繰り返し言われたことはいつまでも忘れないものです。私は親や祖父母から「何にでも命がある」「もったいない」と教えられて育ったので、古くなった道具もなかなか捨てられません。昔なら燃やして供養することもできたのでしょうが、ダイオキシンの発生が問題視されるようになり、家庭では燃やせなくなりましたね。ものがあふれている時代に、捨てられない気持ちだけ昔と変わらず残っていれば困るのは当然です。テレビや雑誌で捨て方が特集されたりするのも、まだまだ私のような人がいるということでしょう。

―あらゆるものに魂があると考えることは、ものを大切にすることにもつながりませんか。

大津◉アメリカの大リーグ・ヤンキースのイチロー選手は、バットやグローブを大事にすることでも知られています。彼がものにも魂が宿ると信じているかどうかは分かりませんが、日本人がものを大切にするのは、日本の文化がこれまで主に木や紙を素材としてきたことと関係があるのではないかと私は考えています。

埋めても永久に土に帰らないプラスチック製品と異なり、自然素材でできたものは、いずれ消えてなくなります。そうしたはかなさを知っているから、私たちは、ものを粗末にできないのかもしれません。いけばなでも私は、強くて変化の乏しい花は魅力に欠けるような気がします。弱くて変わりやすい花ほど美しいと思うのは私だけでしょうか。

杉本◉1000年以上の歴史を持つ祇園祭ですが、応仁の乱や第2次世界大戦で中断を余儀なくされた時期があります。地域の大きなお祭りに限らず、身近な年中行事などは天災や事故、病気などでも例年通りに行えなくなります。ですから、去年と変わらず今年も同じ日に同じ行事をできるのが何よりありがたいわけです。来年もこの日を迎えられるよう願って、ぜいたくを慎み、平穏な日々を慈しみ、節度ある暮らしに努めるのが商家の習いです。

今は、お金さえ出せばケーキもステーキも、好きなときに食べられます。核家族では、食事も自分で作るより出来合いのお総菜や外食で済ませる方が節約になるかもしれません。全て昔と同じようにするのがいいとは思いませんが、ものを粗末にしない心は、現代の私たちにも見習えることではないかと思います。

吉澤健吉さん

コーディネーター
京都新聞総合研究所特別理事・京都産業大教授
吉澤 健吉 さん

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