日本人の忘れもの 知恵会議  ~未来を拓く京都の集い~

伝承技術文化と美意識を
現代生活に再生、覚醒しよう

龍村光峯
織物美術家
龍村光峯

◉たつむら・こうほう
1946年、宝塚市生まれ。71年、早稲田大文学部卒業。76年、龍村平蔵織物美術研究所設立。94年、古代織物の復元、技術保存を目的に「日本伝統織物保存研究会」を設立、理事長として正倉院裂『緑地花鳥獣文錦』などを復元する。代表作に旧大蔵省三田会議所納入タペストリー『和の集』、国立京都迎賓館主賓室タペストリー『暈繝段文(一対)』など。

わが国の伝統的な美術工芸品は、古代から自然を愛で、慈しみ、自然と共に生きてきたわれわれ日本人の生活文化の精華である。1867年のパリ万国博に出品され、西欧の人々に大きな反響を巻き起こし、後にアール・ヌーボーや印象派などに影響を与えたのは、漆芸、陶芸、金工、木工そして版画などの西洋の概念でいう「装飾美術工芸品」であった。錦織をはじめとする絹織物もその中に含まれている。アール・ヌーボーの創始者であったサミュエル・ビングが予言した通り、わが国ではこの「生活文化のなかの芸術」、即ち伝統的美術工芸品は、明治以降衰退の一途をたどってきた。西洋化、近代化を急ぐ明治政府は、洋風の生活様式とともに、積極的に西洋の概念や制度を採り入れ、その結果現在にも続く、美術や工芸の諸制度が構築され、同時にそれらと伝統的なあり方との間に著しいそごを生じてきた。わが国では、江戸時代までアジア・アフリカなどの非西欧の世界がそうであるように「美術」や「工芸」の区別は無かったのだが、ここに絵画・彫刻などの「純粋美術」と工芸などの「応用美術」の区別が持ち込まれ、絵画・彫刻を上位概念とするヒエラルキー構造や、洋画・日本画の二重構造が出来上がり、伝統的な美術工芸品は「応用美術」として一段低く見られるようになったことが、衰退の原因の一つではないだろうか。われわれが今日「伝統」と呼んでいるもの、あるいは「伝統」という概念そのものが、実は明治以降の近代化の産物であり、西欧列強の各国が近代国家の成立や民族主義の勃興(ぼっこう)のうねりのなかで、自国の文化を誇っているのを目前にした明治政府が、わが国にもこのような「伝統」が存在するということを世界に示すべく、意識的に、また文化政策として創出したものではないかということも考えられる。現在の伝統工芸の衰退は、明治以降の西欧化近代化によって生活様式が激変し、時に戦後のアメリカ化、あるいは最近ではグローバリズムによって、生活の根本から根絶(ねだ)やしにされてきたにも関わらず、その根枯(ねが)れを放置したまま対症療法的に「伝統産業」や「伝統工芸」という枠組みが作られ、特殊化され、非日常的なものとなって、本来のあるべき姿を見失ってきたからではないだろうか。「本来のあるべき姿」とは、今はまだ僅(わず)かに命脈を保つ優れた伝承技術文化と自然に育まれ、磨き抜かれた美意識を現代の生活様式の真っ只中(ただなか)に再生し、覚醒させること、時代と真正面から向き合い、しっかりと伝統的土壌に根を下ろしつつ、創造的で完成度の高い作品を作り出すことではないだろうか。

龍村光峯

旅の本来の意味失った
効率本位の現代社会

建畠 晢
京都市立芸術大学学長
建畠 晢

◉たてはた・あきら
1947年、京都市生まれ。美術評論家。早稲田大文学部卒。京都市立芸術大学長。多摩美術大学教授、国立国際美術館長などを経て現職。90年、93年のベネチアビエンナーレ展日本館コミッショナー。2001年の横浜トリエンナーレ、10年のあいちトリエンナーレの芸術監督。詩人としては昨年『死語のレッスン』で萩原朔太郎賞を受賞。

「旅」が日本人の忘れものだというと、とんでもない、誰もが今ほど盛んに旅をする時代はないはずだという反論が即座に返ってきそうだ。確かに海外出張は少しも珍しくなくなっているし、旅行代理店の棚には無数の旅行案内のパンフレットがひしめいている。私がサラリーマンになりたての40数年前は、同僚が海外に出る時には、みんなで羽田まで見送りに行ったものだが、もはや成田や関空ではそんな光景を見かけることもない。旅はすっかり日常茶飯事と化してしまっているのだ。
みんなが頻繁(ひんぱん)に旅をするというのは結構な話ではある。出張やパック旅行は「旅」に入らないなどと分かったようなことをいうつもりもない。ただ問題なのは、旅がともすれば効率本位になり、移動時間は余計な時間と思われてしまいがちなことだ。出発地から目的地へとピンポイントで回るだけの旅になってしまっているのである。
旅とは本来からすれば、移動すること自体に意味があったはずである。旅人とはいうならば移動から生まれる物語に身をゆだねようとしている人であり、当然ながら目指す場所に到着するまでの時間が短ければ短いほどいいというものではない。その本来の意味が飛行機や新幹線といった文明の利器、悪くいえば「スピードというオブセッションに憑(と)りつかれた妖怪」の登場によって逆転され、理不尽にも移動時間の短縮が「自己的化」されてしまっているというわけだ。
私は毎週のように新幹線のお世話になっているから文句を言えた義理ではないのだが、このたとえようもなく便利な乗り物によって、十返舎一九の『膝栗毛』をはじめとする数多くの物語を育んできた東海道の旅は、今や単なる日帰り出張の往復時間に成り下がってしまったように思える。目下喧伝(けんでん)されているリニア新幹線なるものは、それをさらに通勤時間に過ぎぬものへと貶(おとし)めてしまうに相違ない。スピードのオブセッションは地上からすべからく旅を放逐しつつあるのである。
もっとも、最近では老若を問わずトレッキングや自転車旅行を試みる人たちが増えつつあるとも聞く。別段、時代に逆らおうというわけではなく、自然体でスローライフ(和製英語らしいが)を楽しもうというゆったりした姿勢が、かえって好もしい。
だが……。どうやら私自身には旅の回復を大きな顔をして主張する資格はなさそうだ。白状すれば、私はこの原稿を締切りに追われて新幹線の車中で書いているのである。京都駅に着くまでに、メールで送信しなければ……。ああ、なんというせわしない旅!

建畠 晢

自然の豊かさ、生活の豊かさは
何気ない日常のなかにこそある

永田和宏
京都産業大学 総合生命科学部教授
永田和宏

◉ながた・かずひろ
1947年、滋賀県生まれ。京都大理学部卒。京都大再生医科学研究所教授を経て、現職。大学在学中に本格的に短歌を始め、芸術選奨文部科学大臣賞や斉藤茂吉短歌文学賞など受賞多数。2009年、紫綬褒章。短歌結社「塔」主宰。近著に『近代秀歌』など。

昨年『近代秀歌』(岩波新書)という本を出した。近代の短歌の中で、たとえ歌人でなくても、これだけは知っておいて欲しいと思う歌を百首紹介し、鑑賞したものである。それを書いていく過程で、「歌の持つ力」というものを改めて感じるとともに、歌を日常の場に取り戻してやることの大切さを思った。
短歌・和歌と聞くとどうしても難しいもの、正座して読まねばならないものなどと考えがちなのではないだろうか。古典和歌以来、また近代の歌人たちが、身を削るようにして作ってきた多くの作品に対する敬意はもちろん払われなければならないが、一方で歌を堅苦しいもの、襟を正して読まなければならないものと考えられると、歌がかわいそうだと思うのである。

 白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり  若山牧水

友人たちと飲みながら、誰からともなく牧水の酒の話になる。「牧水は一日に一升なんて、自分では言っていたが、ほんとはもっとはるかに多かったんだって」と言うやつがいると、「死んでも三日くらいは死斑が現われなかったそうだ、なにしろアルコール漬けなんだから」なんて応じるやつがいる。こんな話題が飛び交う飲み会なら、出てみたいものだと思う。
京都はどこを歩いても、歌枕に出会うことのできる地である。こんなに恵まれた場所は他にはない。歌枕がなぜ意味をもつのか。それは私たちがその場所が詠(うた)われた歌を知っているからである。

 清水へ祇園を抜ける桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき   与謝野晶子

という一首が、ふと頭をよぎるとき、自分が歩いているその場の風景は、少しだけ違ってみえてくるはずである。
歌を知っているとはそういうことである。知っているからといって、何を得するわけでもないが、「あ、この場所を詠ったあの歌があった」とふと思うだけで、平板な風景がにわかに自分のほうへ立ちあがってくる。
草の名前をひとつ知っているだけで、その道は親しいものになる。漠然と雑草と意識していたときには気付かなかった自然の懐かしさが感じられるものである。植物の名前をひとつ覚える、近現代の歌を一首覚える、そのことによって、自然は、そして場所は自分にとって特別な意味を持ったものになるのである。自然の豊かさ、生活の豊かさとは、実はそんな何気ない日常のなかにこそあるのではないだろうか。

永田和宏

「いのち」から「いのち」へ
畏敬の念を持ち、国境なき祈りを

仲田順和
総本山醍醐寺座主
仲田順和

◉なかだ・じゅんな
1934年、東京都生まれ。大正大大学院にて仏教原典を中心に研究を進める。57年、品川寺に入山、出家。68年、品川寺住職となり、85年より総本山醍醐寺執行長となり、2010年、総本山醍醐寺座主三宝院門跡となる。医療法人洛和会理事、学校法人日本女子大、森村学園、真言宗洛南学園の評議員を務めている。

京都ーこの古い都の永い歴史、時の流れは、私たちに多くの夢とときめきをもたらします。水の都と呼ばれるように、清らかな澄んだ川の流れ。その源には都を囲む山々があり、折々の語らいと祈りを秘めています。神々が集い、諸仏諸菩薩が雲集し、人々の生活を通して文学、芸術が生まれ、多くの「いのち」が育まれきた大きな神秘性を持つ豊かな舞台です。舞台は、人の「いのち」の向こう側にある心を生かす所です。
今、この舞台を前に深く「いのち」を考えるとき、「いのち」を一言でいうならば、自分自身が使える時間です。自分自身に与えられた時間、これが「いのち」です。そしてこの「いのち」には、 “目に見える「いのち」” と “目に見えない「いのち」” があります。 “目に見える「いのち」” は、自分が生きているこの「いのち」です。この「いのち」は自分自身が感じることができる「いのち」です。また “目に見えない「いのち」” とは、私たちと同じように、自分に与えられた時間を使い切った人々の「いのち」です。
父母の「いのち」であり、祖父祖母の「いのち」でありましょう。それを私たちは、ご先祖様と呼び、衆生(しゅじょう)の「いのち」と表現しています。西方へ旅立った多くの人々の「いのち」、これが “目に見えない「いのち」” です。この “目に見えない「いのち」” に呼びかけることにより、自分の心のたたずまいをただすことができます。 “目に見える「いのち」 ”に対する祈りを「ご祈願」と呼び、“ 目に見えない「いのち」” に対する祈りを「ご廻向(えこう)」と呼びます。廻向は追善とか追福という言葉でも表されています。
そして、この祈りの世界で、今日なお祈り続けることができるのは、人は自然の中で生き、「縁」をもって大きな弧を描きながら「いのち」から「いのち」へと受け継がれる循環の尊さがもたらすものです。この尊さに対して、畏敬の念を持って自分自身を社会に明らかにし続けることが大切です。
今世界の人々は、この地に古(いにしえ)の神秘性豊かな心を求めて、大きな舞台に触れたいと京都を訪れます。私は、この京都から世界の人々に向かって、国境を越えた祈りとして

「いのち」に心寄せ合いましょう。
「いのち」に対して手を合わせ
「いのち」に対して祈りましょう。

を提言し、「国境なき祈り」とし、世界の和平を願います。

仲田順和