日本人の忘れもの 知恵会議  ~未来を拓く京都の集い~

パラソフィアに生かされる
伝統の技と京都の自然

池坊由紀
華道家元池坊次期家元
池坊由紀

◉いけのぼう・ゆき
小野妹子を道祖として仰ぎ、室町時代にその理念を確立させた華道家元池坊の次期家元。「いのちをいかす」という池坊いけばなの心を通した多彩な活動を展開。2013年にはハーバード大においてワークショップを、またニューヨーク国連本部において献花を行う。アイスランド共和国名誉領事。

今年は文化の当たり年だ。琳派は光悦村が拓(ひら)かれてから400年を迎える。また3月からは、京都国際現代芸術祭「パラソフィア」が約2カ月にわたって開催される。パラソフィアとは「別の、逆の、対抗的な」という意味を持つパラと、英知や学問体系を意味するソフィアによる造語である。伝統文化の地、京都でなぜ現代芸術なのかという質問は野暮(やぼ)だ。伝統を尊びながらも革新を好み変化を続けていく、いかにも京都らしい選択といえる。
実は、これは京都の経済界が主導となって大きな道筋を作ったところに、その特異性がある。90年代初頭より企業メセナが盛んになり、現代では企業の社会的責務として環境や文化活動に力を注いでいるところも多い。しかしながら今回は個々の単位ではないところが稀有な例だ。長い歴史を振り返ってみると、経済は常に文化と切り離せない関係にあり、そこから良い芸術作品や大きなうねりが生まれてきた。経済的保護のない中で苦悩の果てに絞り出されるような形で、作家が生命を削り取るかのような傑作が生まれたときもあった。
パラソフィアにおける今回の経済界の関わり方は、あらためて文化芸術が人を呼び、街を活性化させ、経済効果が大きいことを再確認させ、文化そのものがまさに経済であることを示唆している。うれしいのは参加する作家の中で、笹本晃氏が西陣織や鍛治の職人たちの体の動きを調査して、パフォーマンスとインスタレーション(空間展示)の表現に生かそうとしていることだ。彼女は、刃物鍛治の現場を見に行き、インスピレーションを得たという。同じ道具でも、金属を熱して鍛造する過程で、職人の経験値により出来栄えは異なる。ものづくりは、奥が深く美しい。
いけばなはもとよりさまざまな文化芸術の素材となり、その造形や風情からインスピレーションを与えてきた自然。そして長い修練があってこそ作り出される匠(たくみ)の技に、現代アーティストのまなざしが注がれる。現代と伝統は決して相反するものではなく、一連の線上にあって、それは人によって、時代によって行ったり来たりできるものだ。また、芸術家によって生み出される作品群と職人によるものづくりも、実はとても親しい関係にある。パラソフィアという大きな枠組みの行事に、私たちの日常の、地道に見える営みに支えられた伝統の技が生かされる。そして、そこに母体となった京都の自然がある。その意味と幸せを考えたい。

池坊由紀

先人たちの尊い思いを
未来を担う若い人も忘れないで

伊東久重
有職御人形司
伊東久重

◉いとう・ひさしげ
1944年、京都市生まれ。12世伊東久重を継承後、伝統的な木彫法による御所人形の制作、修復を始める。佐川美術館、美術館「えき・KYOTO」、北村美術館、海峡ドラマシップなど国内外で展覧会を開催。今年3月に東京銀座和光ホールで個展を開催予定。主な収蔵先は、皇居、東宮御所、京都迎賓館など。同志社女子大非常勤講師。

私の作る人形は御所人形である。江戸時代に天皇をはじめ、公家や門跡寺院、大名家に愛された人形である。その多くは天皇に拝謁(はいえつ)するため御所に参内した方に下賜(かし)され、日本各地に広がったことからその名がついたと言われている。
私の生まれ育った家は職住一体で、祖父母も両親もずっと仕事場にいたので、私はいつも人形に囲まれていた。「家を継ぐんやったら、先祖の作った人形を修復できなあかん。大事に持ってくれたはる方に申し訳ない」。祖父からこう言い渡されたのは、父が亡くなり家を継ぐと心に誓った大学2年の夏であった。先祖の作った人形を修復するということは、代々の者の技法を習得しなければならない。その日から先祖の作った人形の修復と自分の人形の制作を始めた。私の家の御所人形は最も難しいといわれる木彫法である。どんなに破損しても修復できる木彫法で作った人形は、何代にもわたりかわいがってもらえる。
ある日、工房に90歳を過ぎたお婆(ばあ)さんが訪ねて来られ、祖父の作った御所人形を修復してほしいとのこと。子どものころに母親から買ってもらった人形で、ずっと大切にしてきて、先の大戦で家を強制疎開で立ち退かされたときも、この人形は離さず持って出たという。そして、今度結婚する孫娘にあげたいので修復してほしいとのことであった。もちろん二つ返事でお受けしたのは言うまでもない。傷や汚れを取り、化粧直しをして人形は往時の姿によみがえった。受け取りに来られたお婆さんはじめご家族の笑顔に接し、あらためて祖父の教えを思い出した。先祖の人形を修復することの大切さを知ったのである。この人形がお婆さんの思い出とともにお孫さんと生き続けてくれることを願っている。
私は国内をはじめ海外でも個展をするが、いつも京都を題材にした人形を数多く出品する。京都の情景を題材にした作品は、海外でも非常に好評である。これは人形のみならず京都で作られる工芸品はどことなく品格があり、華があるように感じる。やはり、長く都があった京都ならではの大きな力だと思わずにはいられない。この大きな力は、平安京遷都以後、幾多の戦乱や大火災で社寺や市中などが大打撃を被り、伝統ある行事や豊かな文化が衰退しそうな危機に瀕(ひん)しながらも、その都度、修復を重ね復興させてきた京都の先人たちの尊い思いの賜物であると思っている。混沌(こんとん)とした世の中であるが、この先人たちの尊い思いを、未来を担う若い人も忘れないでほしいと願っている。

伊東久重

人が爽やかに生きてゆくためには
「打たれ強さ」がなにより必要だ

井波律子
中国文学者
井波律子

◉いなみ・りつこ
富山県生まれ。京都大大学院博士課程修了。国際日本文化研究センター教授を経て、同名誉教授。専門は中国文学。2007年、桑原武夫学芸賞受賞。著書に『中国の五大小説 上下』『論語入門』『一陽来復』『中国名言集 一日一言』『中国名詩集』『中国俠客列伝』『中国人物伝』(全4巻)、翻訳に『三国志演義』(全4巻)、『世説新語』(全5巻)など。

昨年、春秋戦国時代(しゅんじゅうせんごく)から近現代まで、約3千年にわたる中国史のなかで、政治や文化などさまざまな分野で活躍した人々をとりあげた、『中国人物伝』(全4巻)を刊行した。主要な人物だけでも100名を超え、その生き方は各人各様であるが、生涯を通じて順風満帆という人物などほとんどなく、不遇や逆境を乗り越え、たくましく生きた人が多い。
例えば、儒家思想の祖孔子(こう し)(前551~前479)は、晩年、自らの政治思想を受け入れてくれる君主を求めて大勢の弟子を引き連れ、足かけ14年にわたって諸国をめぐる遊説の旅を続けた。しかし、その願いはかなわず、68歳のとき、母国の魯(ろ)に帰り、5年後、73歳で死去するまで、弟子の教育と古典の編纂(へんさん)に専念する日々を送った。孔子はこうして長く続いた不遇の晩年を、決してめげることなく、不屈の精神力をもって明朗闊達に切り抜けた。その姿は『論語』にも生き生きと映し出されている。
ずっと時代が下り、三国志世界の英雄である曹操(そうそう)(155~220)や劉備(りゅうび)(161~223)にしても、まさに波瀾(はらん)万丈、激しい浮き沈みを繰り返した。一見、強力そのものの曹操も何度も予期せぬ大敗北を喫しているし、劉備にいたっては負けてばかりといってもいいくらいだ。しかし、彼らは敗北の底から不死鳥のように蘇(よみがえ)り、すばやく態勢を立て直して、最後まで戦い続けた。彼らは真に戦う者の突き抜けたような明るさと、けっして諦めない強靭(きょうじん)な反発力によって、困難な状況を次々に突破していったのである。
もっとも、積極果敢に危機や不遇に立ち向かう生き方とはうらはらに、意に染まない状況から一歩身を引き、自前の道を模索する生き方もある。はるかに時代が下った北宋(ほくそう)初期、北宋に滅ぼされた江南の国、呉越(ごえつ)に生まれた詩人林逋(りんぽ)(967~1028)もその一人だ。林逋は亡国の出身者としてのこだわりを捨てきれず、中年にいたるや、故郷である杭州の西湖の畔で隠遁生活に入った。林逋は頑強に政治や社会とは一切関わりを持たず、鶴をわが子、小鹿を召使い、愛してやまなかった梅を妻に見立てて、彼らと楽しく共生した。ちなみに、林逋には、艶なる美女のように梅をたたえ歌った優れた詩がある。
こうした人々の生の軌跡をたどるとき、人が爽やかに生きてゆくためには、なまじなことではへこたれない「打たれ強さ」が、なにより必要だとあらためて思うばかりである。

井波律子

「和をもって尊しとする」
民族の街並みとは思えない光景

井上章一
国際日本文化研究センター教授
井上章一

◉こばやし・かずひこ
1960年、栃木県生まれ。慶応義塾大大学院修了。京都産業大日本文化研究所所長。専門は日本古典文学。古典による観光振興をゼミのテーマに掲げ、2010年経済産業省主催「社会人基礎力育成グランプリ」で準大賞、優秀指導賞をダブル受賞するなど大学生の人材育成にも取り組む。

東山や嵐山の花灯路が、新しい京の風物詩として定着しつつある。電飾の数を競い合ったり、華美な人工色を強調せずに、街並みの陰影を際立たせ、ほんのりと控えめな灯(あか)りが脇役に徹しているおくゆかしさは、いかにも京都らしい。
昨年の秋、東山の名苑で月の出を待つ機会があった。庭の池をはさんだ樹木のその先には、借景がはるか比叡山まで広がっている。灯りらしき灯りは一つも見えない。「おそくいづる月にもあるかなあしひきの山のあなたも惜しむべらなり」(古今和歌集)の古歌が思い出される。近江でもさぞかし月を惜しんで引き留めているのだろう、京都の月の出が遅いなあ、というのだ。待ちくたびれる人々は、王朝の時代にもいたらしい。けれども贅沢(ぜいたく)に時を費やしてながめていると、目も暗さになれ、ほの明るさを徐々に増していく夜空と、逆に陰って山容をいちだんと濃く沈ませる東山との、微妙な陰影のあわいに引きこまれていく。いつのまにか誰も口を開かなくなった。足下からは秋の虫のすだく声が心地よい。やがて夜空にひろがっていたほの明るい微粒子が、ある山際の一点に急速に吸い寄せられたかと思うと、まばゆい光をまとった月が顔をのぞかせる。闇になれた目にはくらむばかり、神々しいまでの美しさである。かぐや姫の世の人々が見たのは、きっとこのような月ではなかったか。
谷崎潤一郎の『陰翳礼賛(いんえいらいさん)』は、日常の微妙な暗さの中に日本独特の美意識を認めた名著である。最近、翻訳書が海外でも評判を呼んでいると聞く。闇を駆逐せずに陰翳のまま残したことが、目を凝らすための視覚はもちろん、それ以上に、香りや風合い、手触り肌触り舌触りを重視する感覚を発達させ、独特の文化を育んだ。その点、現代人の五感は退化の一途をたどっている。子どもたちの将来も、文化の未来も心配だ。
環境省のCO2削減ライトダウン運動が始まって久しい。京都や滋賀では、中秋の名月の前後に街をあげて灯りを消してはどうだろうか。防犯のための灯りは残しつつ、古典ブランドの「月」に、お金をかけずに街並みをライトアップしてもらうのである。リピーターの観光客も驚くような、月の光で影を帯びた、新しくて古い平安京や琵琶湖が出現するのではないか。陰影の文化を未来につなぐ機会としても、意味があるだろう。

井上章一