日本人の忘れもの 知恵会議  ~未来を拓く京都の集い~

常永遠(とことわ)の都=京都に誇りを抱いて

田中恆清
石清水八幡宮宮司
田中恆清

◉たなか・つねきよ
1944年、京都府生まれ。69年、國學院大神道学専攻科修了。平安神宮権禰宜、石清水八幡宮権禰宜・禰宜・権宮司を経て、2001年、石清水八幡宮宮司に就任。02年、京都府神社庁長、04年、神社本庁副総長を務め、10年、神社本庁総長に就任。

平成27(2015)年の新春を言寿(ことほ)ぎ、世界の平安を心よりお祈りいたします。
さて、今から21年前の平成6(1994)年、京都では平安建都1200年の奉祝事業や行事がさまざま企画され、世界に例のない悠久の都として、その歴史を顧みて、日本の歴史や伝統文化の中心にあった平安京を思い、大いに誇りとしたことでありました。
私ども京都府下約1600社の神社関係者は、この好機に次代に引き継がれる記念事業を企画し、そのメーンとして同年10月28日に盛大な記念式典を挙行しました。永遠に歌い継いでいただきたいとの熱い思いを込めて、著名な堀井康明氏に作詞を、そして作曲を現在も音楽界で大活躍中の青島広志氏に依頼し、平安京頌歌(しょうか)「常永遠」を制作。当日の式典において、オペラやミュージカルなどで幅広く活躍されている2期会出身の山本隆則氏の歌唱によって初披露したのでありました。
その歌詞にはこう記されています。

移りゆく時の最中(もなか)にゆるぎなく城なす山や、紫に古昔(いにしえ)の面影(おもかげ)映す悠久の流れの水や、明らかに美しき、この山河に守られて延暦の遠き御代より
星移り、人は変れど百年(ももとせ)を十(とお)と重ねて尚(なお)余る歴史の中に「永遠」の名を保つ都、京都次の世も、又、次の世も常永遠に美しき山河に守られて平安の名にふさわしく平らけく、安らけくあれ

私たち京都府民は、この歌詞にあるように、次の世も、また次の世も、常永遠に美しき山河に守られて平安の名にふさわしく、平らかで安らかな「千年の都・京都」に誇りを持ち続け、その成熟した伝統文化を永遠に守り伝えると同時に、さらにこの時代に新たな創造を加え、世界に名だたる古都として新旧相和して素晴らしい景観を保護し、新しい時代を切り開いていきたいものであります。
そして歴史や伝統文化の精神的支柱としての神仏和合の宗教都市として、これからも多くの人々の穏やかな信仰心を育む平安な故郷として、次代を担う若人たちにその永遠の継承を心より期待したいと思います。
結びに、最も古きものの中に最も新しきものを生み出すエネルギーは、古都・京都にこそあります。伝統とは単に守るだけではなく、その時代に生きる人々の息吹を積み重ねてゆくことが大切だと思います。

田中恆清

政治的結び付きは壊れやすいが
文化による結び付きは生き続ける

田端泰子
京都橘大学名誉教授
田端泰子

◉たばた・やすこ
神戸市生まれ。京都大文学部卒。専門は日本中世史、女性史。1980年、京都橘女子大(現京都橘大)教授、2004年に同大学長に就任。11年から現職。著書に『日本中世の社会と女性』『山内一豊と千代』『乳母の力』など多数。

千年の都・京都には、日本人が心引かれるさまざまな文化の香りが詰まっている。戦国期から織豊(しょくほう)政権期にかけて登場した武将、明智光秀と細川藤孝(ふじたか)が引かれた共通する京の文化は、茶の湯と連歌である。藤孝はこのほか、和歌に優れ、「古今和歌集」の秘伝である「古今伝授」に多大な功績を残した武将であった。
二人の出会いは織田信長が足利義昭と手を結んだときであり、光秀は信長の「奏者」として、藤孝は越前まで義昭に付き従った家臣として、両主君を握手させる役割を務めた。その信長が義昭と訣別(けつべつ)して以後、藤孝も信長の家臣となる。信長から坂本と近江志賀郡の統治を任された光秀と、山城西岡(にしのおか)の勝龍寺城を拠点に「桂川西地」を「一職(いっしき)」に安堵された藤孝は、吉田神社祠官吉田兼和(かねかず)(兼見(かねみ))や里村紹巴(じょうは)などとともに、茶の湯・連歌・古典研究で親交を深める。
吉田兼和は公家であるが、信長が岐阜や安土から入京する際には、いち早くその知らせを光秀から受け取り、山科や大津まで迎えに出て時の権力者との交誼を深める努力をする。こうして文化を通じてのつながり・友情は互いの政治的立場の補強に役立てられた。
吉田兼和の光秀との親交は、本能寺の変で断たれた。その後、兼和はもともと親友であり趣味の点でも息の合う藤孝との親交をいっそう厚くする。秀吉時代、藤孝は子息忠興(ただおき)とともに西岡を離れ、丹後を領国とする大名に転身したが、京に出てきた藤孝とともに兼和は、茶の湯や連歌を楽しみ、大坂城の秀吉を訪れたりしている。さらに藤孝の娘で先に一色義有(いっしきよしあり)に嫁していた伊弥(伊也とも)が先夫を失うと、その娘の再婚相手として白羽の矢を立てられたのは、兼和の子息兼治(かねはる)であった。伊弥が幸せな再婚生活を手に入れたのは、父親同士の厚い友情のたまものといえよう。細川忠興が豊後杵築(きつき)を拝領したり、豊前中津、筑前小倉に移封(いほう)されたときも、藤孝の武将としての功績、古今伝授での功績がたたえられた。
藤孝は晩年おもに京都に住んでいる。京都の中でも親友のいる吉田の地に居を定めている。武将としてよりも文化に没頭することこそ、自らの生き方であると心に決めたからであろう。
こうした三人の生き方を見たとき、光秀・藤孝・兼和を結び付けた絆は、趣味や文化であったことが明らかになる。政治情勢の変化で交友関係は破られるが、文化による親交の絆は情勢の変化を超えて、脈々と友情として続いた。政治的結び付きは壊れやすいが文化による結び付きは友情として子孫の代まで生き続けるのである。

田端泰子

“何か”に対する畏怖の念を
持ち続けて欲しいと願う

中島貞夫
映画監督
中島貞夫

◉なかじま・さだお
1934年、千葉県生まれ。映画監督。東京大卒業と同時に東映京都撮影所配属。『くノ一忍法』(64)で監督デビュー。やくざ、任侠、時代劇、文芸ものなど作品は多様。代表作は『日本の首領』3部作、『序の舞』(インド国際映画祭監督賞)、『極道の妻たち』シリーズほか。京都市文化功労賞、京都府文化功労賞、牧野省三賞ほか受賞歴も多い。

今日もテレビや新聞は、連続放火事件やわが子殺しを報じている。何のためらいも無く年配者をだます「オレオレ詐欺」は一向に減らず、その年配者も遺産金欲しさに夫を毒殺する。どれもが己が欲望を抑えることができぬままに突っ走った犯罪行為…。それが人間よ、と言ってしまえばそれまでだが、かつて日本人はこうした破廉恥な行為に走ろうとするときに、ふとどこかに歯止めの装置を持っていたはずではなかったのか。
いつの折だったか、しかとした記憶にないが、この装置について倉本聰とこんな会話を交したことがあった。
“何か良からぬことをしようとすると、ふっと何かに見られてるって気がしてさ”
“俺もだ。そう、誰かじゃなくて何かなんだけど…。そんなこと感ずるなんて、古いのかねえ、俺たち…”
30年ほど前になるが、『瀬降り物語』という映画を撮った折のことだ。大自然の織りなす四季の変化を狙うため、四国は四万十川の源流に近い山中にプレハブを建て、京都との間を行ったり来たりはあったものの、一年を掛けて撮影をした作品だった。内容は昭和初期までは残存していた山の民をめぐるドラマで、テーマは、“お天道(アノ)さんにはかなわねえ”だった。“アノさん”とは自然の摂理と解してもらってよいが、人里離れた山中を生活の場にする彼らにとって、自然はさまざまな恵みを与えてくれる場であると同時に、畏怖すべきものでもあった。当然のことながらわれわれの撮影も、雨の日は雨の、雪の日は雪のシーンをと、アノさんに従ってのみ可能だった。
浅学を顧みずに言えば仏教伝来以前から、日本人は祖先崇拝とともに、自然に神を見ていたという。山川草木は言うに及ばず、森羅万象に神を見た日本人。それはとりも直さず、自然とその摂理への畏怖の念がそうさせたに違いない。しかも何時のころからか日本人は、忘れてしまっているようだ。文化文明依存への急傾斜、それに伴う過度の合理主義・個人主義の矛盾、その行き着く先は、厳しい格差社会の出現であり、抑制不能の欲望の肥大化である。そうした風潮を今こそ日本人は、いにしえより抱き続けて来た“何か”に対する畏怖の念を、それがご先祖さまであろうと、アノさんであろうと、何か分からぬままの“何か”であろうと、その眼差(まなざ)しがどこからか自分に向けられているという、畏怖の念だけは忘れることなく持ち続けて欲しいと願うばかりだ。

中島貞夫

私たちがともに立つ場所は
〝聖なる空間〟です

仲田順和
総本山醍醐寺座主
仲田順和

◉なかだ・じゅんな
1934年、東京都生まれ。大正大大学院にて仏教原典を中心に研究を進める。57年、品川寺に入山、出家。68年、品川寺住職となり、85年より総本山醍醐寺執行長となり、2010年、総本山醍醐寺座主三宝院門跡となる。医療法人洛和会理事、学校法人日本女子大、森村学園、真言宗洛南学園の評議員を務めている。

大きなうねりの中、世界が音もなくひびわれていく現実を前に、2015年の新春を迎えました。
ちょうど15年前、21世紀を迎えたとき、世界は、過去の100年は〝戦争の時代〟 〝経済の時代〟であったと反省し、これから来る100年は〝言語や宗教が重んじられる時代〟 〝心の時代〟。「心」を中心に世界・社会が動けば、平和な安らぎに満ちた社会が構築されると考えました。そんな中で、少なくとも自分の意に反したこと、社会通念に反した事象が起こると、人々は口々に「心の荒廃」という言葉をもって、問題を処理しようと行動してきました。そして、今日も行動しつつあります。止めどもなく続く社会のうねりの中、足早に過ぎゆく日々に追いつくことができない今日このごろです。
ここで強く感じるのは、現実を前に、伝統的な知識の枠組みを再検討し、枠を乗り越えた新たな思想の構築の模索がヨーロッパ社会に起きて、その広がりを見ることができることです。それは、人間観や、宗教間の根源的な問い直しにほかなりません。
ご一緒に考えましょう。
日本社会の一隅で一生懸命に生きている人々の叫びかけも、世界の知識人の発言も、人間観・宗教間の根源的発言にほかありません。私たちは、まず反省しなくてはならない二つの問題があります。一つは「日本の伝統、東洋の物の見方の無視と忘却」。もう一つは「似ても似つかない西洋化」。この二つです。
人間生活の中で理性的な判断を分別と考えるならば、分別は欠くことのできない人間生活の営みです。この分別が、一人の神様の上に立っての判断と、東洋を中心とする相対的価値判断の上での分別とは大きな差があります。東洋の立場からなら、世界中に伝承されてきた知識の枠組みを超えることのできる可能性を示唆します。
そして何よりも新しい教育の中で、絶対的価値観を分母として、分別を分子としてのものの考え方に流されていることです。もう一度勇気を出して、素直な気持ちで、私たちの伝統、ものの見方を再検討しましょう。そうしたら、人間を中心としての社会が見えると思います。
「自己は、物でなく、場所である」
これは、京都大学の西田幾多郎先生の言葉です。その場所に立って自己の情緒を高めることから再出発してみませんか。多くの人に場の提供はできます。ともに立つこともできます。そして、そこから人間性、宗教的情緒をともに味わうことができます。私たちがともに立つ場所は〝聖なる空間〟です。

仲田順和