日本人の忘れもの 知恵会議  ~未来を拓く京都の集い~

日本の伝統的な自然観を
地球の未来社会に生かす

安成哲三
総合地球環境学研究所所長
安成哲三

◉やすなり・てつぞう
1947年、山口県生まれ。京都大理学研究科博士課程修了。筑波大地球科学系教授や名古屋大地球水循環研究センター教授などを歴任後、2013年、総合地球環境学研究所所長に就任。専門は気候学・気象学。現在は、地球環境を包括的に調査分析する地球環境学の分野でも活動。秩父宮記念学術賞、水文・水資源学会国際賞など受賞多数。

日本人のノーベル賞受賞科学者の多くから「日本人だったからこそもらえた」という言葉を聞いている。この意味は、欧米の研究者にはない日本人固有の発想と独創性があったから評価されたということである。では、それらはどこからきているのか。
日本列島は、四季折々に変化するモンスーン気候や山と谷、平野、海岸などが複雑に入り組んだ地形、そしてそれらによる多様な生態系に恵まれている。一方で、地震、津波、火山、台風などの自然災害にも悩まされてきた。このような自然を生かしながら、あるいは折り合いながら、私たちの祖先は縄文のころから水田稲作農業を築き上げてきた。この水田稲作は、自然をある程度改変しつつも、その恵みを受ける仕組みとして、里山という人為的自然とそれに伴う文化を築いてきた。その過程で、まさに「自然とともに生きる」という考え方が日本人には当たり前のものとして培われてきた。
約270年続いた江戸時代の鎖国は、限られた資源や自然の恵みをいかに無駄なく持続的に活用するかという工夫がなされ、江戸や大坂・京都という都市を含め、自然の循環の中で生きていく知恵と思想がさらに培われたといってもいい。このような日本人の自然観は、欧米人とは異なる発想を生み出す源になっているとも考えられる。
自然と一体になって日本人が生きてきたことを示す文化の一つが俳句である。季語を入れることにより、四季折々の中での人が自然と向き合いながら生きている姿が17文字の中に表われているが、それは論理というより人間と自然の一体感の表現そのものといえる。俳句が江戸時代に発達したのも、自然と共生する循環型社会に人々が生きていたからかもしれない。
一方、西欧で発達した近代科学では、自然は利用し、制御する対象であり、人間と自然は対立的な関係であった。明治以降、日本は、近代科学に基づく産業を発達させ、20世紀後半には世界第二の経済大国にまでなったが、同時に大気・水汚染などの公害問題を引き起こすことになった。現在、さまざまな環境問題を克服しつつ、より人間らしく生きるための「持続可能な開発」という概念が提唱されているが、人間と自然の対立関係を前提とした近代科学の発想のみでは、根本的な解決ができるとは思われない。人間も地球の自然の一部として、他の生物と共に生きる存在であるという、日本の伝統的な自然感を、如何に科学技術に生かし持続可能社会を作ることができるか。地球社会における私たち日本人の役割が今、問われているのではないか。

安成哲三

生きる知恵を与えてくれた
何の目的もなく集まり過ごす時間

山極寿一
京都大学総長
山極寿一

◉やまぎわ・じゅいち
1952年、東京生まれ。京都大理学部卒、京都大理学研究科教授を経て、2014年より京都大総長。理学博士。アフリカ各地でゴリラの行動や生態をもとに初期人類の生活を復元し、人類に特有な社会特徴の由来を探っている。著書に『家族進化論』(東京大学出版会)、『ゴリラは語る』(講談社)、『サル化する人間社会』(集英社)など。

イチョウの葉が一斉に落ちて、秋から冬に街は急速に彩りを変えていく。急ぎ足で通り過ぎる人々を見ていると、何か昔と違うなあという気持ちになった。昔の町並みを思い返してみて、それが人々の集まり方だと思い当たった。
私が子ども時代を送った1950年代は、どこでも人々がよく集まった。冬になれば、道に降り積もった落ち葉を掃いて集め、焚(た)き火をしている人が多かった。そこに何となく人々が寄り合い、四方山(よもやま)話が交わされる。子どもたちは焚き火にあたりながら、大人たちの間に交じってその話を聞いていたものだ。たいがいは近所の噂(うわさ)話で、どこの家で何があったか、どの店で何が売り出されるかなど、たわいもないことばかりだ。でも、そういった話を聞きながら、自分が住む社会の様子を頭に描き、ほのぼのと温かい気持ちになったものだ。
それは今考えてみると、人々に安心や信頼を与える装置であったように思う。近所に住んでいる人々がどんな性格なのか、世間の動きにどんな関心を持っているのか、新しい出来事にどう対処しようとしているのかを知る、絶好の機会だったのである。子どもたちはその噂話を通して、自分の信頼できる社会環境を学ぶことができた。日々引き起こされる問題に自分がどう取り組むべきかを、大人たちの態度を通して知ることができた。
現代でも人々はよく集まる。でもそれには目的があることが多い。お目当ての品物を手に入れるため、評判の料理を食べるため、イベントを見るためなど、魅力的なものやことに引き付けられて集まってくる。何となく集まって話をすることがなくなったような気がする。
今の時代、情報は人から人へと伝えられるものではなくなった。インターネットを用いれば、ほしい情報はいつでもどこでも手に入る。携帯電話やメールを使って、どこにいても友人と話ができる。しかし、それで本当に生きるために必要な情報は得られているのだろうか。人間が豊かに暮らすためには、まずその生活環境が信頼でき、安心できることが不可欠である。そのためには、文字にならない情報が必要なのだ。人々の性格や態度はなかなか言葉では言い表せない。それには集まって顔を見せ合い、噂話を通して納得するのが一番の早道なのである。
何の目的もなく集まり、ただともに過ごす。その一見無駄に見える時間が、多くの生きる知恵を人々に与えてくれたのだと、今にして思う。できれば、そんな集まりを復活させたいものである。

山極寿一

自然はひとりでに動く
人為を超越する

養老孟司
京都国際マンガミュージアム館長
養老孟司

◉ようろう・たけし
1937年、鎌倉市生まれ。62年、東京大医学部卒。同大助手、助教授、教授を経て95年退官。東京大名誉教授。退官後は著作・講演活動のほか、昆虫特にゾウムシの採集、分類に没頭する。

未来を考える。考えようとする。これは人がよくやることである。何事もそうだが、これにも陰陽がある。あるいは表裏がある。
なぜなら未来には、考えられる未来と、考えもしなかった未来があるからである。戦前の常識で、戦後が想像できたであろうか。小学生がスマホを持って歩く時代、会社のオフィスがパソコンで埋まっている状態を、だれが戦前に想像したであろうか。
考えるのは人の意識で、意識には限度あるいは枠がある。意識は自分の枠を超えるものを想像できない。でも現代に生きていると、意識が捉えることだけが未来になる。ああすれば、こうなる。こうすれば、ああなる。それは意識の作業である。でもそこには「いつの間にかこうなった」ということは含まれていない。
例えば人口減少はその一つであろう。だれも日本人を減らそうと意図したわけではあるまい。まさに「いつの間にか減ることになった」。意識のみで世界を見ると「いつの間にか起こる」ようなことが抜ける。でもその意識自体はいつの間にか生じて、いつの間にか消える。自分の意識がいつ生じて、いつ消えるか、確言できる人は誰もいない。意識自体は意識で左右できない。
それを教えてくれるのは誰か。自然である。技術は意識が動かす面が大きい。例えば機械なら「こういうものを創ろう」と意図するからである。自然の意図は読めない。ひょっとすると、こうなるかもしれない。でもああなるかもしれない。そう想像するだけである。その想像が当たるとは限らない。
現代科学は技術優先になった。ノーベル賞ですら、京都賞ではないのに、技術に与えられる。技術は「人のつもり」で動く。でも自然はひとりでに動く。大げさにいうなら、人為を超越する。時々そういうものに目を向けよう。それが私のメッセージである。
なぜそんなことをする必要があるのか。生きることの面白さは、いわば想定外にある。想定内だけに生きることを、今では安心・安全という。それを悪いとはいえまい。でもなぜか面白くない。そう思う人も多いはずである。焼きそばからゴキブリが出てくる。この程度でもニュースになる時代である。
私自身の後半生はまさに想定外だった。想定内だった勤め人時代を考えると、実は考えたくない。今と比べたらまったく「面白くなかった」からである。まあ人の生き方は自由だけれども。

養老孟司

ブータンの生活の中に
日本人の「幸せ感」につながるものが

吉川左紀子
京都大学こころの未来研究センター 教授・同センター長
吉川左紀子

◉よしかわ・さきこ
京都大こころの未来研究センター教授、センター長。京都大大学院教育学研究科博士課程満期退学、博士(教育学)。追手門学院大文学部助手、助教授、ノッティンガム大客員研究員、京都大教育学部助教授、同大大学院教育学研究科教授を経て2007年より現職。専門は認知心理学、認知科学。共著書に『よくわかる認知科学』『心理学概論』ほか。

2010年、京都大学とブータン王立大学との間でブータン友好プログラムという交流事業がスタートした。経済指標でみれば発展途上国ということになるのだろうが、ブータンを訪れその文化に触れた日本人は、老若男女を問わず、何とも言い難い「なつかしさ」を感じるという人が多い。私も、訪問団のメンバーとして初めてブータンを訪れて以後、ヒマラヤの中腹に位置するこの小国の持つ引力に引かれ、何度も出掛けては、その「なつかしさ」の正体を考え続けている。ブータンの人たちの毎日の生活の中に、日本人が感じる「幸せ感」につながる何かが、潜んでいるように思えるのだ。
ブータンの民家を訪ねると、どこの家にも立派な仏間がある。家の人たちは、毎朝仏様の前に置かれた小さな器の水を替え、家族や先祖、子孫の幸福を祈るという。清潔だが質素な造りの家の中にあって、供え物に囲まれた仏像が安置された仏間は、他の部屋とは異なる「聖なる場所」の趣がある。ブータンの人たちが先祖を思う、あるいは家族の幸福を祈る時間の大切さが、そうした佇(たたず)まいから伝わってくる。
北海道の製紙工場の社宅で生まれた私は、これまで仏間や仏壇のある家に住んだことがない。それでも半世紀以上前、工場横に並ぶ小さな社宅にも、座敷には一畳ほどの床の間があり、そこは他の場所とは異なる特別な空間だった。床の間の前に正座して、母が花を生け、掛け軸を替える様子を見ていた幼少のころ、「床の間にあがっちゃいけませんよ」としつけられた記憶がある。子ども心に、床の間の前に座るときのちょっと緊張する感覚は、今もよく覚えている。
現在、私が住んでいるマンションには仏間も床の間もなく、「聖なる場所」に近い空間はない。ブータンから戻ってくると、それが何となく物足りなく感じられるようになった。そこで、玄関脇の棚に、両親から受け継いだ高さ30センチほどのどっしりとした優しいお顔のこけしを置き、小さな果物の置物などを横に並べてみた。いわば「家の中のお地蔵様」である。こうして生まれた、私製お地蔵様のお顔を見ながらしばし心を整えると、それだけで少し幸せな気持ちになるから不思議である。現世御利益ではなく、生きるものすべての幸せのために祈るというブータンの人たちとは比べられないが、こうした空間に身を置いて、静謐(せいひつ)な時間を持つことの意味は、思いのほか大きい。これまで、祈りや信心とはほとんど縁のなかった心理学者の実感である。

吉川左紀子