日本人の忘れもの 知恵会議  ~未来を拓く京都の集い~

古代からの一続きの歴史を
いま一度想起してみる

高村 薫
作家
高村 薫

◉たかむら・かおる
1953年、大阪市生まれ。会社勤めを経て90年『黄金を抱いて翔べ』でデビュー。93年『マークスの山』で第109回直木賞、同年『リヴィエラを撃て』で第46回日本推理作家協会賞、98年『レディ・ジョーカー』で第52回毎日出版文化賞、2006年『新リア王』で第4回親鸞賞、09年『太陽を曳く馬』で第61回読売文学賞受賞。

高校時代から今日まで、ほぼ半世紀も京都を身近に眺めて暮らしてきた。大阪で生まれ育ち、いまも大阪に住んでいる人間でも、学校や仕事、季節の行楽などで日常的に京都と関わりを保ち続けているのは、地理的な近さもさることながら、やはり京都の持つ歴史的文化的な引力の大きさによるのだと思う。
とはいえ昔から、観光客で賑わう神社仏閣を除くと、京都には歴史的遺構が意外に少ないことが気になっていた。長らく都であっただけに戦火で何度も焼失した上に、鴨川や桂川などの洪水で町が流されることも多く、その都度平安京の条坊は少しずつ失われ、時代とともに都市の構造も大きく変わっていったのだろう。ともあれ、「京都=日本の歴史」という一般的なイメージと現実の間に、若干の落差があるのは事実である。
もちろん、祇園祭の山鉾巡行の背景が四条通の雑然とした商業ビルや看板の群れであるのは、現代の生活空間の中で行われる祭りである以上、仕方のないことではあるし、京都の人も観光客もあえて気に留めることはしない。けれども一方では、祇園祭がこうして京都の夏の代名詞となり、内外に広く知られるようになればなるほど、忘れられてしまったものがあるような気がしてならない。いまや宵山も山鉾巡行も華麗なページェントとなり、その様子はテレビでも中継されて全国に流される。そこには、この祭りの始まりが9世紀の貞観地震のときに、悪霊や死者の怨霊を鎮めるために執り行われた御霊会だったことの名残はみじんもない。疫病や天変地異を恐れ、鬼神や怨霊の祟りを恐れて神仏に祈り、供物を捧げてきた日本人の心象がそれなりに語り継がれ、人びとが心身にそれを刻んできたなら、ここまで祇園祭がショー化されることはなかったのではないかと思う。
歴史はときどきの時代に合わせて読み替えられてゆくものではあるが、邪馬台国や戦国時代がそうであるように、私たち日本人は一続きの歴史ではなく、際立った断片の物語を抜き出してそこにロマンを見る傾向が強い。私たちが「歴史」「文化」「伝統」と呼ぶものの多くは、そうして選別された断片であり、前後の脈絡を失ったことでいくらでも改変され、姿かたちを変えてゆくのである。時代とともに変化すること自体は是も非もないが、少なくとも京都が「歴史」を標榜するのなら、古代からの一続きの歴史をいま一度想起してみることも必要なのではないだろうか。

高村 薫

日本人の自然観や精神性を
世界に向けて発信する

田中恆清
石清水八幡宮 宮司
田中恆清

◉たなか・つねきよ
1944年、京都府生まれ。69年國學院大神道学専攻科修了。平安神宮権禰宜、石清水八幡宮権禰宜・禰宜・権宮司を経て、2001年石清水八幡宮宮司に就任。02年京都府神社庁長、04年神社本庁副総長を務め、10年神社本庁総長に就任。

神道の原点は自然崇拝です。草木山川あらゆる自然万物に神が宿り、私たち人間はその恩恵によって生かされています。それに対する畏敬と感謝の念を捧げる場所として社殿が建立され、その精神の積み重ねが日本人の心の中で生き続けてきた結果、神道が今日に伝わってきたのだと思います。そして、神道的な自然観というのは、世界に誇るべき日本の宝だと私は思います。
自然とは一般に「天然の人為が加わっていないもの」の意かと思いますが、日本人は元々その語句を「しぜん」ではなく「じねん」と呼んでいました。 「じねん」とは、「自ずとそうなる」という意味です。そこには、人間も自然の一部と捉え、大自然を人間の外に置くことなく、対立するものと考えない発想が宿っています。
常に人間は自然と共生しながら、その恵みを受けて生かされている。ときには厳しい試練を与えられながらも、なお、自然を恨むことなく、その恩恵に与って日本人は数千年の歴史を日本列島の上で築き上げてきました。
ところが、昨今「地球にやさしく」「自然を大切に」といった言葉が使われるようになり、日本人古来の信仰観、自然観が希薄になったように思えてなりません。それはそれで間違いではありませんが、そんな大それたことを私たちは言えるでしょうか。大自然が自己と繋がっているという視点が抜け、自然を外側から見ているように思えて仕方ありません。人間がどんなに知力能力に優れていようと、やはり自然にはとても及びません。私たちはそういうものの中に生かされているということをしっかりとわきまえ、今を生きていかなければいけないと思います。
神道には「中今」という言葉があります。これは、「歴史的に継続している今」という観念で、特別な思想ではありません。日本人の誰しもに染み付いているものの道理であり、生かされている、連続した命をいただいている「今」を精一杯に生きることが何より大切だという極めて道徳的でありながら、生命観や自然観すべてを包含した深い日本人の教えでもあります。日本人は「今この一瞬」を常に繰り返し、常に新しい命を甦らせ、重ねていくことにこそ永遠性を感じているのだと思います。
今、この日本人の自然観、神道の「中今」の精神が世界から注目されています。そのような時にこそ、悠久の歴史と伝統を誇り、世界屈指の観光都市である京都の地から、前向きな何かを生み出す可能性を秘めている日本人の自然観や精神性を、世界に向けて発信していただきたいと願っております。

田中恆清

和名の活用で
わが国の文化をより深く高める

田畑喜八
染色家・日本伝統工芸士会 会長
田畑喜八

◉たばた・きはち
1935年、京都市生まれ。早稲田大第一文学部卒。京都市立美術大日本画科修了。祖父(3代、人間国宝)と父(4代)に師事。95年5代目を襲名。田畑染飾美術研究所代表。日本伝統工芸士会会長、日本染織作家協会理事長。2006年旭日双光章受章、11年文化庁長官表賞。著書に『田畑喜八 草花図』など。

物質文明や科学文明の飛躍的な発展を見せる現代社会にあって、今その精神的・文化的裏付けが強く要求される。
わが国の精神性が多分に裏付けされた文化の一翼を担う私たちの伝統工芸は、法律その他で、その保護育成が声高に叫ばれているが、需要の減少・後継者不足などいろいろな要因から長らく低迷が続き、少し明るさが見られるとはいえ、いまだ道遠しの感あり、そこからの脱却は容易ではないが、忘れられそうな日本人の感性を取り戻すことがぜひ必要である。
私たちの伝統工芸、中でも染織の世界は色と文様が車の両輪であるが、特に「色」が重要な役割を担っている。一つ一つの色が良くても、配色如何によって可とも不可ともなる。その良きお手本は自然界に見られる。
古来、日本人はこの自然界や色に対して他国よりも繊細な感覚を持っている。古今集や新古今集などの詩歌を見ても、目に見える色から目には見えないが人に想像させる色まで、その多様さは無限といってもよく、色彩感覚の豊潤さは世界に誇り得る文化といっても過言ではない。色の和名は江戸時代まで文化の中心だった公家階級に主に用いられていたが、その後、武家や町人にも伝わり、地域によって少し差異がみられる。
近年、政治から経済・IT、その他私たちの周囲は、わが国固有の言語を英語などに置き換えて表現することが多く、場合によっては相手に誤解を与えたり、ごまかすことにもなっている。わが国の文化の尊重、ひいては発展について考えれば、どうしても外国語でなければならないものを除き、自国語をもっと活用すべきであろう。
例えば、世間で「ピンク」と呼ばれる赤い色は、濃淡・地味派手があり、人々の頭には百人百色となるが、「小桜色」「小町桜」「乙女色」「桃色」という和名を冠せば、その色が人々の頭に具体的に感知される。その他「グレー」と呼ばれる色名も「銀鼠・絹鼠・薄雲鼠・墨鼠…」など、鼠百色といわれるほど私たちは実に多くの具体的な和名を受け継いできた。
「このお着物の地色はピンクです。この地色はグレーです」と言うより「この色は乙女色です。この地色は銀鼠です。」と言った方が相手に好印象を与え納得してもらえるが、現下なかなか実行してもらえないのが残念である。
文化庁の京都移転を契機に、わが国の文化は、その価値を裏付ける精神的なもの―和名を用いてその尊さをさらに高めたい。

田畑喜八

日本人のDNAに刻まれた
「お互いさまの精神」

堤 未果
ジャーナリスト
時田アリソン

◉つつみ・みか
1971年、東京都生まれ。ニューヨーク市立大大学院修了。国連婦人開発基金、アムネスティ・インターナショナルNY支局員を経て、米国野村證券に勤務中、9・11同時多発テロに遭遇。『ルポ貧困大国アメリカ』が日本エッセイスト・クラブ賞。著書に『空飛ぶチキン』『グラウンド・ゼロがくれた希望』『政府はもう嘘をつけない』など。

当たり前という名の霧が晴れた時、目に映る世界が急に色彩を変える瞬間がある。私にとってそれは、取材の最中にやってきた。80年代以降、〝今だけカネだけ自分だけ”のグローバル資本主義が暴走し、あらゆるものに値札が付けられてきた国。アメリカでは医療も保険も高額で、治療方針は医師ではなく医療保険会社が決めている。オレゴン州に住むある女性は、肺がんを宣告された時こう言われたという。「がん治療薬は保険外で月4千ドル(約47万円)、保険が利く安楽死薬なら50ドル(約6千円)です」。まさに、命の沙汰も金次第なのだ。取材で出会う人々は、日本の医療制度の話を聞きたがる。入院して月100万かかっても、支払いが月9万で済む「高額療養費制度」の例を話すと、医療破産が日常茶飯事のアメリカ人は絶句してしまう。
ある在日米国人タレントは、日本の公的保険が高すぎると文句を言った。「自分はこんなに努力して稼いで、健康に気を使ってる。なぜ他人の医療費を支える保険料まで払わなければならないのか?」。それを聞いた時、はっと気が付いた。世界が羨む国民皆保険の価値とは、制度そのものよりその礎である「寄り沿い、共に生きる」こと、私たち日本人のDNAに刻まれた、「お互いさまの精神」であることに。いつの間にか全ての価値が数字で測られ、労働よりも資本が、モノ作りより金融業が重視され、すぐに結果を出せないと切り捨てられる今の時代、「お互いさま」はその対極にある価値観だ。だがふと見ればそれはまだ、日本のあちこちに息づいている。例えば農村から優れた地域医療を続ける長野や、家族主義を貫き、住民幸福度指数の高さを誇る北陸、数年前に移り住んだ京都では今も、人と人とのつながりが、時間と信頼をつみ重ねる形で育てられている。大量生産ではなく世代を超えて伝承する匠の技や、想像力を育てる活字文化、生命線として過疎地をつなぐ各地の協同組合。ジャーナリストだった私の父は、亡くなる間際にこう言った。「国の不正を追っていた俺が、当たり前だと思っていたこの国の皆保険制度に最後救われた。どうかお前が俺の代わりに、この国が持つ宝ものを伝えてくれ」。そう、それらは失われたのではなく、忘れられているだけだ。引き潮の海岸で、黒い砂の上に現れる美しい貝殻のように、そっと気付かれるのを待っている。その価値を守ろうと私たちが心に決めさえすれば、この国の未来は限りなく未知数になる。

時田アリソン