日本人の忘れもの 知恵会議  ~未来を拓く京都の集い~

心に〝聖なる空間〟

仲田順和
総本山醍醐寺座主
仲田順和

◉なかだ・じゅんな
1934年、東京都生まれ。大正大大学院にて仏教原典を中心に研究を進める。57年、品川寺に入山、出家。68年、品川寺住職となり、85年より総本山醍醐寺執行長となり、2010年、総本山醍醐寺座主三宝院門跡に就任。16年、真言宗長者を務める。医療法人洛和会理事、学校法人日本女子大、森村学園、真言宗洛南学園の評議員を務めている。

幼い日、鎌倉市二階堂の谷戸、奥まったところ「知自庵」に母と住していたころ、若水を汲みに天神さまの森へ行った。二階堂の天神さまは、町並みの入り口、奥まった鬱蒼と茂る杉木立の中にある。お社の周辺は人家はなく、裏側に続く杉木立は、ひと山越えてわが家の前まで来ている。
今日、天神さまは、「入学祈願」学問の神様とされているが、元々は呪いや、怨みの鎮めである。
天神の森に「若水」を汲む母の仕種を追慕すると、ふとギリシャ語の「ヒエロス」、ラテン語の「サーケル」の二つの言葉を思い浮かべる。同じ内容を示すこの二つの単語、「手を触れてはいけない」、いわば〝聖なるもの〟とでも言う言葉と理解する。古い時代のギリシャ、ローマ、インドの言葉に今日言うところの「宗教」にあたる言葉は見当たらない。その代わり信仰や儀式に関する言葉は多い。「ヒエロス」や「サーケル」もその一つで、「三藐三菩提」の〝サン〟や、「サンタルチヤ」「サンタクロース」の〝サン〟に関わりを持つ。今、日本にこの神に接する特別な目的以外に出入りしたり、手を触れてはいけない、〝聖なるもの〟への観念が童謡の中に歌いつがれているのは興味深い。天神さまをテーマにした「通りゃんせ」も一つである。

通りゃんせ通りゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神さまの細道じゃ
どうぞ通して下しゃんせ
ご用のないもの通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに
お札をおさめに詣ります
行きはよいよい、帰りはこわい…

強い禁制に対して、宗教的行為〝祈り〟を明らかにした時、入ることを許される。ところが「行きはよいよい、帰りはこわい」と締めくくる。宗教的目的ならば入りなさい。しかし、お札をおさめたその帰り道、いわば宗教的目的を果たしたその直後から保証はしませんよ、と誠に厳しく命令する。
私たちの身の回りに〝聖なるもの〟はたくさんある。お仏壇、神棚はとりわけ家の中にある〝聖なるもの〟、お寺、お宮、教会は、社会の中にある〝聖なるもの〟。これらはみんな生活の中に〝聖なる空間〟として存在する。忘れてはならないことは、「通りゃんせ」の童謡が示すように〝聖なるもの〟への厳しさを身に付けることであろう。
正しい〝祈り〟に生きるためには、自己の心に、誰にもおかされない〝聖なる空間〟を持つことこそ、なにより肝心である。

仲田順和

京都に生きている「間」。そこに、
懐の深さ、居心地のよさがある

永田 紅
歌人
永田 紅

◉ながた・こう
1975年、大津市生まれ。京都大大学院農学研究科博士課程修了。専門は細胞生物学。京都大特任助教。12歳より短歌を作り始める。歌壇賞、現代歌人協会賞、京都府文化賞奨励賞受賞。歌集に『日輪』『北部キャンパスの日々』『ぼんやりしているうちに』、エッセー集に『家族の歌』(共著)。

京都は「間」のある町だ。ぎゅうぎゅうでもなく、スカスカでもなく、いい具合の間が息づいている町。
京都での学生生活を終えた後、東京に4年間住んだ。東京はもちろん、便利で面白い都市である。20代の終わりから30代前半、下北沢での生活を楽しんだ後、京都に戻ってきた。戻って間もないある晩、出町柳から糺の森のほうを眺めて、なんて暗いのだろう、なんて田舎に帰ってきてしまったのだろうと戸惑ったことがある。けれど、そんな暗さ、空間がいいのだと思える感覚はすぐに回復した。鴨川の川原を歩いたり、路地の奥の垣根に柊の花を見つけたりしているうちに、自分がゆったりと「間」に馴染んで入り込んでいることに気付く。
先日、漫画家・声楽家の池田理代子さんとお話をさせていただく機会があった。その中で、「漫画家はある時期必ず、空間があると何か入れなきゃいけないという感じに陥りますね」と、「画面の空間恐怖症」のことをおっしゃっていて、とても興味深かった。短歌でもまったく同じ。どうしても言葉を詰め込みたくなるのだ。歌を作り始めて何年も、私は31音のどこかに隙がないよう、一首を気の利いた表現で埋め尽くさなければいけないという強迫観念にとらわれていた。
工夫した表現のオンパレードは、一見華やかで才気に富んでいるようだが、作意が見えて飽きることがある。のびやかな広がりがない。意味や、凝った比喩ばかりに頼るのではなく、なんでもない言葉の「間」で読ませる歌を作るのは、なかなかに難しい。
池田さんは、「そのうち何もない空間と描き込んである空間のバランスみたいなものが分かってくる」とも話された。間や余白に注がれた力は、見えにくい。しかし、間に耐える、間を放置できる余裕を持つことは、表面的な表現技術を磨く以上に、年季、自信のいることなのだろう。
何気なく置かれたような、ニュートラルな間。それを媒体として、人はより深く対象に近づくことになる。間があるから、安心してそこにたゆたい、そこから何かを感じ取る。間は両者をつなぐ装置であり、未知のものがやってきたときには、とりあえず放り込んで泳がせておける器でもある。
間が抜ける、間が悪い、間合い、といった言葉もある。物理的だけでなく、時間的、心理的にも、間の取り方の大切さを思う。京都はもちろん、寺社仏閣、名所旧跡に恵まれているが、それらのあいだに生きている「間」を維持し続けてこられたことにこそ、懐の深さ、居心地のよさがあるのかもしれない。

永田 紅

二度と失敗を繰り返さないために
必要なのは、明確な分析と総括

本庶 佑
京都大学大学院医学研究科客員教授
本庶 佑

◉ほんじょ・たすく
1942年、京都府生まれ。京都大大学院医学研究科博士課程修了。静岡県公立大学法人理事長、京都大学医学部学部長、内閣府総合科学技術会議議員などを歴任。免疫細胞の分化、増殖メカニズムなどを世界に先駆けて明らかにした。専門は医化学・分子免疫学。2000年文化功労者。13年文化勲章受章。『いのちとは何か─幸福・ゲノム・病』など著書多数。

昨年11月の米大統領選挙の結果は、世界中の人を驚かせた。とりわけ、日本人は驚いた。日米同盟が米国にとって不利で、日本は核武装して自立しろと言っていた人が当選したのだ。日本人の遺伝子には、寛容と和が刻み込まれている。約3万年前に来た縄文人の先祖が、気候温暖なこの地に定着した。鉄器と稲作文化を持った弥生人が到来し、抗争の時期があったが、狩猟民族が隣り合い、つい二百年前まで抗争を続けた大陸諸国に比べるとはるかに平和な社会であった。この過程で日本人の遺伝子から争う遺伝子が排除されたのかもしれない。中東における過激派組織「イスラム国」(IS)や国家間の宗教戦争、移民排除のための英国の欧州連合(EU)からの脱退など非寛容の流れが止まらない。そこに差別的な主張を繰り返す人物が米国の大統領になるのだ。世界の歴史が大きく舵を切っているように見える。
寛容の民、日本人は他人の失敗をも謝れば済んだことだと水に流して受け入れる。しかし、ものには限度がある。日本人は第二次大戦の敗戦を終戦と言ってごまかしている。なぜ、われわれは無謀な戦争を行い、また、どのような形で終息していれば多くの人が死なずに済んだのか、きちんとした分析がなされなければならないが、いまだにそのような総括を聞いたことがない。個人的な努力で研究した人はいる。しかし、本来国家として分析し、公表すべきであろう。時と共に事実は風化し、時すでに遅いかもしれない。
まだ遅くないことがある。福島原子力発電所事故だ。東京電力は、事故を防ぐためになぜ適切な対応をしなかったのか明確な総括をしていない。40年かけて廃炉をするというが廃炉とは何を意味するのかも明示されていない。原子炉から溶け出し、土台のコンクリートにまで染み込んだ核燃料を取り出すには、コンクリートの塊ごと切り出すしかない。切り出してからはどうするのか。それを置く場所はあるのか。一体いくら費用がかかるのかも気掛かりだ。凍結壁による地下水流出防止装置の失敗を繰り返さないでほしいものだ。
私の考えでは、あの原子炉の周りを厚いコンクリートで覆い蓋をして、新しい冷却装置を加えた上で先人の失敗を学ぶための記念公園として、次の世代への警告のモニュメントにするのが良いのではなかろうか。膨大な費用をかけて核燃料を取り出し、どこかの地底に埋められ、残る施設をすべて取り壊して忘却するより、失敗を二度と繰り返さない教育材料とする方が後世に人の役に立つのではないか。

本庶 佑

2016年11月撮影

小学校教育発祥の地、京都から
「温故知新」の教育を発信する

水谷 修
花園大学客員教授
水谷 修

◉みずたに・おさむ
1956年、横浜市生まれ。上智大文学部哲学科卒業。横浜市で、長く高校教員として勤務。教員生活のほとんどの時期、生徒指導を担当し、「夜回り」を通して、中学・高校生の非行・薬物汚染・心の問題に関わり、生徒の更生と、非行防止、薬物汚染の拡大の予防のための活動を精力的に行なっている。現在、花園大客員教授。

日本の小学校教育は、まさにこの京都から始まりました。1869(明治2)年、市内各地域に64の小学校が、市民たちの手によって次々と開設されました。まさに京都は日本の義務教育の発祥の地です。
今、日本の小中学校教育が、政府の手により大きく変わりつつあります。最新の知識や技術をいち早くしかも少しでも多く、子どもたちに教え込むことを通じて、日本の科学や学問、経済や社会の発展に有用な国民をつくることを目的とした、「知識偏重」の教育へと移行しています。私は、これは間違いだと考えています。
「教育」には、二つの意味があり目的があります。一つは「教」、まさに今、政府が意図している「知識偏重」の教育です。もう一つは「育」、すなわち、自らものを考え判断し、自らの人生を切り開く能力を育てる教育です。私は本来、教育は「育教」と呼ばれるべきだったと考えています。
まずは小中学校において、きちんと「育」を行うことにより、基礎的な知識を身につけ、それとともに自らものを考える力を育て、自分の能力の可能性や限界を知ること。そしてその後、自分にとって最もふさわしいと選択した進路、つまり、社会や高等学校、大学において、「教」、すなわち自分の選んだ人生を生きていく上で必要な知識を学ぶ。これが本来の教育のあるべき姿だと考えています。簡単に言えば、人格の形成を知識の獲得より先にすべきだということです。
知識の獲得を教育の最大の目的とすれば、落ちこぼれる子どもたちがたくさん出ます。すでに今、たくさんの子どもたちが勉強についていくことができず、苦しんでいます。その子どもたちは、どうしたらいいのでしょう。覚えた知識の量で評価され、ある意味で人生を決められてしまう。これは、間違いです。また、最新の知識や技術を最優先に教えることは、私たちの伝統や文化、言い換えれば、私たちの日本人としてのアイデンティティーの喪失につながります。
私はまさに、日本の教育発祥の地、そして、日本古来の文化や伝統がいまだに多く、しかも深く残っている京都で、本来の教育を再興してほしいと心から願っています。小学校から地域の歴史や文化、しきたりを学び、宗教者や文化人、知識人、さまざまな分野の専門家との触れ合いを通して、自分の将来や人生を考える。こんな「温故知新」の教育を、まさに京都から発信してほしいと切に願っています。

水谷 修

元龍池小学校講堂〔明治9(1876)年 築〕
提供=京都市学校歴史博物館