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第13回 紫式部日記

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原文は伊藤博校注『新日本古典文学大系24』(岩波書店)より転載。原文の表記の一部を修正している。

 『源氏物語』が中宮彰子の御前に置いてあるのを、殿(道長)が御覧になって、いつもどおりの冗談を口になさったそのついでに、梅の実の下に敷かれた紙にお書きになった歌、

 この梅が酸っぱいもの(酸(す)き物)だと有名で目に入れば好んで折り取られるように、あなたもまた好色(好(す)き者)だと名の知られた方だから、姿を目にした男が、折らずに放って過ぎ去ることなどなかろうと思うね。こう詠んで私にくださったので、

 「人にはまだ折られたことなどない私ですのに、いったいどなたが、「このすきもの」などと言いならしなさったことでしょう。ああびっくり、心外だわ」と申し上げた。

 寝殿と対(たい)の屋の渡り廊下にしつらえられた局に寝た夜、どなたか戸をたたく人がいると音を聞いたけれど、恐ろしくて、物音さえ出さずに一晩を明かしたその翌朝、

 一晩中、真木(松・杉・檜など)の戸の前にいて、水鶏(くいな)の鳴き声よりも激しく、泣く泣く戸を叩(たた)いたのに、(お返事もなく)呆然(ぼうぜん)と立ち尽くしていたことよ。という(道長の)和歌をもらったその返歌、

 何事かしら、とばかりに、水鶏の鳴き声のように戸ばかりを叩く音は聞きましたが、うわべだけのお方ゆえに、もし戸を開けていたら、いかに悔しい思いをしたことでしょう。

「紫式部日記絵巻」(五島美術館所蔵)13世紀前半の成立という。敦成親王御五十日の宴の場面を凝縮して描く。右側で呼びかけているのが公任。右大将実資は女の衣を数え、左上では右大臣顕光が女房に絡んでいる
「紫式部日記絵巻」(五島美術館所蔵)13世紀前半の成立という。敦成親王御五十日の宴の場面を凝縮して描く。右側で呼びかけているのが公任。右大将実資は女の衣を数え、左上では右大臣顕光が女房に絡んでいる
上記画像は、五島美術館のサイトで見られます。


道長も古典の日の主役



 『紫式部日記』には『源氏物語』に関する記事がいくつか載る。寛弘5(1008)年11月1日、左衛門(さえもん)の督(かみ)藤原公任(きんとう)が紫式部に「あなかしこ、このわたりに、若紫(わかむらさき)やさぶらふ」と声を掛けた場面が著名だろう。『源氏物語』が歴史上に刻印された記念として、千年後、同じ日付に「古典の日」が宣言された。

 藤原道長の長女中宮彰子が一条天皇に入内(じゅだい)して9年、ようやく生まれた敦成(あつひら)親王(後一条天皇)の御五十日(いか)(生誕五十日のお祝い)の宴席でのことだ。道長の邸宅土御門殿(つちみかどどの)での敦成誕生の一連は『紫式部日記』の前半を彩る。道長待望の慶事であった。

 『和漢朗詠集』撰者(せんじゃ)で、漢詩文、和歌、管絃のすべてに通暁する最高の文化人(『大鏡』の三船の才の逸話参照)であった公任が、晴の日にこんな冗談を言いかける。面映(おもは)ゆくも作者冥利(みょうり)に尽きる出来事だが、紫式部は「源氏に似る(「かかる」という異文あり)べき人も見え給はぬに、かの上(うへ)は、まいていかでかものしたまはんと、聞きゐたり」。光源氏もいないのに、紫の上がいるわけない、と舌を出す。『源氏』作者らしい複眼の感性だ。

 「我(わ)が紫」と読む説もある(萩谷朴(はぎたにぼく))。俺の紫はいるか、と言ったのだとしたら、ずいぶん酒癖悪い戯言(ざれごと)だ。実際、宴は乱れた。右大将実資(さねすけ)は女の衣の褄(つま)や袖口を数え、右大臣顕光(あきみつ)は女房にしつこく絡む。権中納言隆家も「聞きにくきたはぶれ声」を挙げ、「おそろしかるべき夜の御酔(え)ひ」であった。同僚の女房とそそくさ逃げ出そうとした紫式部だったが、道長に捕まってしまう。和歌を一首詠んだら許してやる、と迫る道長が「厭(いと)はしく恐ろしければ」、彼女はとっさに若宮敦成の「八千歳(やちとせ)のあまり久しき君が御代」を言祝ぐ和歌を詠んだ。道長はその即詠に感嘆し、すぐに「あしたづのよはひしあらば君が代の千歳の数もかぞへとりてん」(私に鶴の長寿があったら、この若君の千年の未来を見届けたいものよ)と返歌した。紫式部は「さばかり酔(え)ひたまへる御心ちにも、おぼしけることのさまなれば、いとあはれにことわりなり」、こんなに酔っぱらっていても、いつも心で思ってらっしゃる御孫のことをお詠みになったので、胸を打つ得心の名歌だと褒めた(『紫式部日記』)。

 10年後の寛仁2(1018)年10月16日、娘の威子(いし)が後一条(敦成)の中宮となり、太皇太后彰子、皇太后妍子(けんし)とともに一家に三后が立った。満願成就の夜、土御門殿で道長は「誇りたる歌」だと前置きして、即興で「このよをば」の和歌を詠む。実資は「御歌優美」で「酬答」(返歌)に及ばず。満座で詠誦をと逃げた(『小右記(しょうゆうき)』)が、紫式部ならどうしただろう。

 さて原文の前半は、『源氏物語』をめぐって「殿」道長が紫式部を「好き者」とからかう。彰子が実家の土御門殿に滞在中のことだ。後半の二首は場面が違う。歌の作者も「人」と匿名だが、後に藤原定家はこの二首を『新勅撰集』に入集。「夜ふけて妻戸を叩き侍りけるに、開け侍らざりければ、あしたにつはかしける」と詞書を付し、道長と紫式部という作者を明記した。勅撰集の権威は絶大だ。二人の愛人関係は周知の事実となる。14世紀後半成立の系図集『尊卑分脈(そんぴぶんみやく)』は、紫式部の注に「御堂関白道長妾云々」と誌した。

 『紫式部日記』の成立は複雑で、現在残された順に書かれたものではない。原文の一節も「若紫やさぶらふ」の逸話よりずっと後に出てくるが、前後の文脈や事実関係の考証から、じつは同じ寛弘5年のことらしい。梅の実の季節だから、旧暦5月の終わりから6月ころ。「若紫や…」は11月なので、『紫式部日記』の中で最も早く『源氏物語』に言及したのは、この場面ということになる。『源氏物語』の完成には、しかるべき支援が要る。『日記』にも見える紫式部の自邸は、土御門殿からほど近い、現在の廬山寺にあたるとの説がある(角田文衞)。『源氏物語』の第一読者・中宮彰子の父で、『源氏』にも関心を示し、艶めく言葉で作者を口説く道長こそ、紛れもなく、古典の日のもう一人の主役である。


廬山寺(京都市上京区)

紫式部が一生のほとんどを過ごした邸宅跡とされる廬山寺(京都市上京区)
紫式部が一生のほとんどを過ごした邸宅跡とされる廬山寺(京都市上京区)
廬山寺地図
廬山寺地図

 京都御苑東にある清和院御門を出ると寺町通。そこから北へ100メートルほども歩くと右手に廬山寺が見える。廬山寺は、平安時代中期に船岡山山麓(京都市北区)に開山した寺院から始まり、変遷を経て天正年間の1573年、紫式部の邸宅跡とされる現在地に移った。

 この寺を紫式部の自邸跡と考証したのは、考古学者の角田文衞博士。紫式部の曽祖父・藤原兼輔が造営し、鴨川の西の堤防に接した場所だったことから「堤邸」と呼ばれた。紫式部はここで一生のほとんどを過ごしたという。

 清和院御門近くにある道長の自邸「土御門殿跡」と廬山寺は、貴族の邸宅のスケールからすれば隣同士ともいえる距離。だから、道長は、時には紫式部邸も訪ねて、この歌のように「夜もすがら」言い寄っていたかもしれない。想像は膨らむ…。

 廬山寺の「源氏庭」は、名残の紫のキキョウから間もなく紅葉へと移り変わる。

あらき・ひろし

荒木浩氏

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)

【2018年10月25日掲載】