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第19回万葉集 巻九 水江(みづのえ)の浦の島子(しまこ)を詠(よ)みし一首短歌を幷(あは)せたり

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原文は佐竹昭広他校注『新日本古典文学大系2』より転載。原文表記の一部を修正している。

 霞みわたる春の日に、墨吉(すみのえ)の岸に出て腰を掛け、釣り船が通っていくのをみると、古の伝説が思い出される。

 水江(みずのえ)の浦の島子(しまこ)が、自慢の腕で鰹を釣り、鯛を釣って、七日間家にも帰らずに、海原を遠く漕いで行くと、海の神の乙女にたまたま出会って声を掛け合い、思いが通じて結婚することになったので、ちぎりを結んでともに常世の国にやってきて、海の神の宮廷の奥深い麗しい御殿に、二人手を携えて入って住まい、不老不死の命を得て、永い時間を二人幸せに暮らしていたのに、なんとまあ、この愚かな人間界の浦の島子が、愛する妻に告げ知らせて語ったことには、「しばしの間家に帰って 父母に事情も話し、その翌日にでも、私は必ず帰って来るよ」と言ったので、妻は、「この常世のあたりに再び帰ってきて、今のように私と逢おうと思うのならば、この箱を開けてはいけませんよ、決して」と命じた。

 ところが、あれほど堅く約束したことなのに、島子は、墨吉(すみのえ)に帰って来て、家のあたりを探して見ても家も見つからず、里を見ても里もないので、はてどうしたことかといぶかしみ、家を出てわずか三年の間に、垣根も家もなくなることがあろうか、もらったこの箱を開いて見たなら、もとのように家が現れるのでは、と思って玉手箱を少し開くと、白い雲が箱から出て、常世の国の方角に向かって棚引いたので…

「浦島物語絵巻」香雪美術館所蔵(部分)乙姫が浦島太郎に玉手箱を渡す場面。お伽草子絵巻であるが、本作の特徴は、故郷に浦島の女房がいることだ。女房は「ふしぎなる夢」を見たので今日の釣りは止めてと頼むが、浦島は逆夢だろう、大丈夫さ、と海に出て、亀に逢う
「浦島物語絵巻」香雪美術館所蔵(部分)乙姫が浦島太郎に玉手箱を渡す場面。お伽草子絵巻であるが、本作の特徴は、故郷に浦島の女房がいることだ。女房は「ふしぎなる夢」を見たので今日の釣りは止めてと頼むが、浦島は逆夢だろう、大丈夫さ、と海に出て、亀に逢う


浦島伝説、丹後では夫婦の神



 旅の歌人、高橋虫麻呂(むしまろ)の作である。このあと島子は、常世の妻へ思いが募り「立ち走り叫び袖振り こいまろび足ずりしつつ たちまちに心消失(けう)せぬ」と慟哭し、「若かりし肌も皺(しわ)みぬ 黒かりし髮も白(しら)けぬ ゆなゆなは息さへ絶えて 後(のち)つひに命死にける」。そして長歌は「水江(みづのえ)の浦の島子(しまこ)が家所(いへどころ)見ゆ」と閉じ、短歌一首を付す。

 舞台の「墨吉」は「住吉」と同じ。摂津国の歌枕だ。古代は「すみのえ」だが、平安時代には「すみよし」が住吉神社か郡名、「すみのえ」は入り江と詠み分けるようになる。しかし浦島伝説を略述する『日本書紀』雄略天皇二十二(四七八)年七月の記事では、丹波国(たにはのくに)余社郡(よざのこおり)管川(つつかわ)の水江浦島子(うらしまのこ)が、蓬莱山に到って仙人達に遭(あ)ったという。余社は与謝で、和銅六(七一三)年、丹波から分かれて丹後国(たんごのくに)となる。ではなぜ「すみのえ」なのか。『古事談』などが引く平安時代の「浦島子伝」は「澄江(すみのえ)」と書く。これなら「水江」に通じ、丹後と解して矛盾はない、ともいう。

 『丹後国風土記(たんごのくにふどき)』逸文(いつぶん)では、三日三夜、一魚も釣れなかった浦島が五色の亀を得て、舟中でまどろむと、亀はたちまち麗しい婦人に変化した。女娘(をとめ)は「天上(をとめ)の仙(ひじり)の家の人なり」と名乗り、「相談(あひかた)らひて愛(うつく)しみたまへ」と求婚して即答を迫る。気圧されるように結婚を承諾した浦島に、妻は「目を眠(ねむ)らしめ」と教え、瞬時に「海中(うみなか)の博(ひろ)く大きなる島に至りき」。わらべ姿の昴星(すばる)や畢星(あめふり)たちに迎えられ、妻の名を「亀比売(ひめ)」と聞いて、ようやく正体を知った浦島は、父母に紹介され、人間界では想像もできない豪華な宴(うたげ)の歓待を受ける。その果てに妻は「独り留まり」、浦島と「肩を双(なら)べ、袖を接(まじ)へ、夫婦之理(みとのまぐはひ)を成し」た。延喜二十(九二〇)年成立という『続浦島子伝記』は『医心方(いしんぽう)』に通じる「道教医学の房中術、性技の型」を「引用・例示し」て、浦島と妻が蓬莱で「金丹」他の仙薬を飲んで夫婦の営みに励むさまを詳述し、「男子王朝官人たちの好むポルノグラフィーの趣向を盛り込む」(渡辺秀夫)。

 『丹後国風土記』逸文の浦島は、故郷を忘れて「仙都(とこよ)に遊び」、三年の月日が流れた。しかし帰郷後、浦島が尋ねた郷人(さとびと)は、古老の相伝では、浦島が独り「蒼海(うみ)」に消えてから「今、三百余歳を経(へ)つといへり」。すでに浦島は太古の伝説であった。

 ところが『古事談』は、平安時代の「淳和天皇御宇天長二(八二五)年」に「丹後国余佐(よさ)郡人水江(みづのえ)浦嶋子(うらしまのこ)」が「松船に乗りて故郷に致(いた)る」と語り出し、「島子郷(さと)を辞して後(のち)、三百年を経て故郷に還る。其(そ)の容顔幼童の如し」という。その理由(わけ)は、『水鏡』が「天長二年十一月四日」に淳和天皇が「嵯峨法皇の四十の御賀をし給ひき。今年、浦島の子は、常世の国より帰りし也」と語る枠取りで明らかだ。四十賀(よそじのが)は「初老」として長寿を祝う、算賀の始まり。嵯峨院の四十歳は、当時「仙算」「仙齢」と称された。『水鏡』の時系列は「雄略天皇の御代にうせて、今年は三百四十七年といひしに帰り来たりし也」と後付けされる。仙人のように三百年以上の齡(よわい)を得て、「幼童」のような若々しさを保った浦島は、法皇の長寿奉祝を忖度して待ち受け、出来すぎの祥瑞(しようずい)として帰還する。

 桓武天皇の子である嵯峨と淳和、嵯峨の子である仁明、という三代は、神仙好みであった。淳和の勧めもあり、病弱な仁明は、医師の禁止を押し切り「金液丹」等、道教の丹薬を「強服」常用する。『続日本後紀』によると、嘉祥二(八四九)年三月二十八日、「興福寺大法師等」が仁明天皇の四十賀を祝い、贈り物と長歌を献じた。そこには天人が「御薬」を捧げる像と「浦島子」が「雲漢(=天の川)に昇る」像もあった。だが浦島とは違い、翌嘉承三年三月二十五日、仁明は四十賀の「仙齢之算」の翌年に崩ずる。

 丹後の浦嶋神社(宇良神社)は、天長二年の創祀で、浦嶋子を筒川大明神として祀る。鴨長明は「丹後国よさのこほりに、あさもがはの明神と申す神います」、「これは昔、浦島の翁の神となれるとなむいひつたへたり」と誌した(『無名抄』)。中世のお伽草子では、七百歳の浦島太郎は鶴となり、浦島明神として、亀とともに夫婦の神と祀られる。


浦嶋(宇良)神社 京都府伊根町本庄浜

森閑とたたずむ浦嶋神社拝殿(京都府伊根町)
森閑とたたずむ浦嶋神社拝殿(京都府伊根町)
浦嶋神社
浦嶋神社

 丹後風土記の浦島伝説を語り伝える浦嶋(宇良)神社は、伊根の舟屋群からやや内陸に入ったところ、木々に囲まれひっそりと建っている。浦島子が訪れた常世を岩と苔で再現した境内の「蓬山(とこよ)の庭」や拝殿に掛かる古い奉納のウミガメの甲羅が、浦島伝説ゆかりの神社であることを物語る。

 創紀は天長2(825)年。浦島が約300年を経て常世の国からこの地に帰ってきた年といい、社伝は、淳和天皇が浦島を筒川大明神と名付け、社殿を造営させたと記す。

 浦嶋神社から半島突端の経ヶ岬に向かうと、蒲入地区辺りから夢のように海が開ける。断崖で切り取られた大海原。この絶景は、浦島ならずともその先に未知の異境を幻視させずにはおかない。

 丹後半島の浦島伝承は、伊根町のほか半島西側の京丹後市網野町にもあり、島(嶋)児神社、網野神社などで浦島子を祭っている。

あらき・ひろし

荒木浩氏

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)

【2019年4月25日掲載】