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第17回 蜻蛉日記 中巻 道綱母

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原文は今西祐一郎校注『新日本古典文学大系24』(岩波書店)より転載。原文表記の一部を修正している。

 (安和2<969>年3月)二十五六日の間に、西宮(にしのみや)の左大臣源高明(たかあきら)は、流罪に処せられた。その様子を一目拝見しようと、天下を揺るがす大騒ぎとなって、邸宅の西宮(右京の四条にあったのでこう呼ぶ)へと人々は慌てて駆けつける。まあ大変なことになったと様子を伺う間に、左大臣は、こっそりお逃げなさったのであった。「愛宕山にいるらしいぞ」「いや清水寺に」などと騒ぎになって、とうとう見つけ出されて流罪となったと聞くと、なんだかもう、むやみやたらと哀(かな)しく、私のように事情にうとい身でもこのような具合だから、本当に左大臣のことを思い、内情をわきまえる人は、袖を濡(ぬ)らして涙にくれぬものなどない。

 多くお持ちだったお子様たちも、どこか知らぬ国へ流されて行方も知らず、離ればなれにお別れになる。御剃髪(ていはつ)なさって僧侶になる方もおられるなど、その悲哀の大きさは、まったく表現のしようもないほどだ。左大臣も法師におなりになったけれど、委細構わず太宰権帥(だざいのごんのそち)になされ、筑紫へ追放されてしまった。そのころは、ただこの事件の顛末に関する話題で持ちきりであった。

 自分の身の上だけを誌すこの日記には、入れるべき事柄ではないけれど、なんと哀しい出来事よ、と思ったのも他ならぬ私だから、書き記し置くのである。

『石山寺縁起絵巻』(石山寺所蔵)巻2第8段。道綱母が銚子で水を掛けられる夢の場面。『絵巻』詞書は「七月十日余りの程にや」と書く。『蜻蛉日記』にも「石山に十日ばかりと思ひ立つ」とあるが、実際はお盆過ぎの記事で、参籠中に、明るく二十日の月が照る
『石山寺縁起絵巻』(石山寺所蔵)巻2第8段。道綱母が銚子で水を掛けられる夢の場面。『絵巻』詞書は「七月十日余りの程にや」と書く。『蜻蛉日記』にも「石山に十日ばかりと思ひ立つ」とあるが、実際はお盆過ぎの記事で、参籠中に、明るく二十日の月が照る
上記画像は石山寺のサイトで見られます


思うようにならぬ身を嘆く



 前回、伴大納言善男が西寺と東寺を跨いだ夢を読み、九条殿師輔(もろすけ)が内裏を抱(いだ)く夢を紹介した。『蜻蛉日記』下巻の天禄3(972)年2月条には、両袖に「月と日とを受け」、「月をば足の下にふみ、日をば胸にあてていだ」く夢が出てくる。おととし作者が石山寺に詣でた時、陀羅尼(だらに)を尊く読み、礼堂で拝む法師がいた。聞けば、前年から山籠(ご)もりする穀断(こくだ)ちの僧だという。「祈りせよ」と頼んでおいたら、こんな夢を見たので夢解きを、と報告が来た。他人事を装い、夢合わせに問うてみたら、誰の夢かと驚き、「みかどをわがままに、おぼしきさまのまつりごとをせむものぞ」、朝廷も政治も思いのままの意、と解いた。

 『蜻蛉日記』中巻で作者は、夫兼家の不実に悩み、姉妹にも告げず、独り石山詣でを思い立つ。天禄元年のお盆過ぎ、七月の二十日頃のことだ。御堂で泣き暮らした夜も更け、未明にふとまどろめば、石山寺の別当らしき人が銚子で右膝に水を注ぐ、と見た。仏の霊夢か。『石山寺縁起』は、8月2日に兼家が訪れ、夫婦仲は丸く収まったと誌す。『蜻蛉日記』では夢の後、夜が明けて御堂を下(お)り、琵琶湖を眺めつつ、涙に咽(むせ)んで舟に乗る。打出浜(うちでのはま)で車に乗り換え、昼前の巳(み)の刻許りに京に着いた。彼女の出奔に世間は騒然だが、当人はどこか投げやりだ。以降も、そして8月2日に突如兼家が来訪しても、苦悩は消えない。

 「男もすなるにき日記といふものを、女(をむな)もしてみむとてするなり」(『土佐日記』)。『蜻蛉日記』を嚆矢(こうし)として、『和泉式部日記』『紫式部日記』『更級日記』など、女流の仮名日記が文学史を彩る。男性貴族の漢文日記が具注暦(ぐちゆうれき)の余白に書かれるように、日々書かれるのが日記(ダイアリー)の本義で、兼家の父師輔の『九条殿遺誡(ゆいかい)』によれば、朝粥の前に昨日の出来事を記す。ところが菅原孝標女(たかすえのむすめ)の『更級日記』は、五十を過ぎた時点から、少女時代以来、現在までを回想して誌す。『蜻蛉日記』には序文があり、世間に流布する「ふる物語」のフィクションと比べながら、「人にもあらぬ身(み)のうへまで書(か)き日記(にき)し」た自分の行為を謙遜する。上巻末には「思ふやうにもあらぬ身を」嘆くこの日記は「あるかなきかの心ちするかげろふの日記(にき)といふべし」と命名の由来を述べる。もはや回想記(メモワール)という「作品」である。さらに『和泉式部日記』は、自分を「女」と書く。「身の上」さえ離れ、物語世界に遊ぶかのようだ。実際、京都大学所蔵の写本(応永本)には『和泉式部物語』というタイトルが付く。

 それ故か『御堂関白記』など男性日記の書き手は「記主」というが、女流日記については通常「作者」と呼ぶ。その作者名も、女性の実名は伝えられないことが多い。『蜻蛉日記』の道綱母(みちつなのはは)も、藤原兼家との間に道綱を産んだ女性、という意味だ。父は藤原倫寧(ともやす)で、姉妹には『更級日記』作者の母がいる。夫兼家は道長の父だが、道長母は、嫡妻(正妻)で子宝に恵まれた時姫(ときひめ)である。法律(『律令』)上、妻は一人。重婚は禁じられているから、道綱母は妾(しよう)という位置づけだ(工藤重矩)。この関係性が『蜻蛉日記』に描かれた愛憎の基調となる。兼家・時姫一家の他に、町の小路の女、近江というライバル達も「身の上」の視点から、「道綱母の心に結ばれた映像として登場する」(渡辺実『平安朝文章史』)。

 そんな彼女も、安和の変だけは「身の上」を逸脱して書かずにいられなかった。石山詣での前年、安和二(九六九)年三月二十五日に、清和源氏の満仲(みつなか)等の密告によって謀反摘発。翌日、源高明も事件に巻き込まれ、この騒動となった。四月一日、右京四条の邸宅西宮殿は焼亡した。鴨長明が愛読する慶滋保胤(よししげのやすたね)『池亭記(ちていき)』は、西宮殿のその後の荒廃を西の京(右京)衰亡の象徴として描いた。師輔五女だった妻の愛宮は尼になり、一条北・大宮西の桃園(ももぞの)の高明別邸で物思いに沈む。道綱母は愛宮と悲嘆を共有し、歌の贈答を重ねた。

 高明は、醍醐天皇の皇子で『西宮記(さいきゆうき)』という儀式書を著すなど、知性の人だ。『今昔物語集』他の原拠である散佚「宇治大納言物語」は、高明の孫、源隆国の手になると『宇治拾遺物語』序文は記す。その『宇治拾遺』巻頭話は、道綱の息子道命と、日記作者和泉式部との交際秘話(「文遊回廊」第10回)。いくつかの偶合が興味深く連なる。


石山寺(大津市石山寺1丁目)

石山寺の入り口「東大門」。仁王様が両脇に立っている(大津市石山寺)
石山寺の入り口「東大門」。仁王様が両脇に立っている(大津市石山寺)
石山寺
石山寺

 奇岩の山の上に建つ石山寺は、奈良時代、747年開基の観音の聖地。千年以上昔の「蜻蛉日記」の作者のように、その霊験を求めて「石山詣で」をする人たちは今も絶えることがない。東大門をくぐり、参道を進む。左手の本堂に向け石段を登っていくと、目の前に、灰色の大岩塊がそそり立つ。これが石山の由来となった硅灰石(けいかいせき)(天然記念物)の巨大な露頭。その先に、朱色に輝く二層の多宝塔が見える。

 清少納言が霊山とめでたこの寺に、道綱母のほかにも、「更級日記」の菅原孝標女や和泉式部も参籠したことが知られている。また、紫式部がここで「源氏物語」を着想したとの言い伝えも有名だ。平安時代、石山寺は、はかないわが身を文学に託す女性たちを引き受け、その心を癒(いや)す場だったのだろう。寺の前には今も、彼女らを舟で運んだ瀬田川が滔々(とうとう)と流れている。

あらき・ひろし

荒木浩氏

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)

【2019年2月28日掲載】