日本人の忘れもの 第2部

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京都発「日本人の忘れもの」キャンペーン第2部

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第15回 10月7日掲載

名望家のつとめ
民主化の進行と格差の解消が
名望家たちのノーブリス・オブリージュ
という観念を失った。

井上章一さん

国際日本文化研究センター教授
井上 章一 さん

いのうえ・しょういち 1955年、京都市生まれ。京都大大学院建築学専攻修士課程修了。80年同大人文科学研究所助手、87年国際日本文化研究センター助教授を経て、2002年から現職。研究分野は建築、歴史、文化、風俗と幅広い。主な著書は「霊柩車の誕生」「美人論」「つくられた桂離宮神話」など。近著は「伊勢神宮 魅惑の日本建築」。

私は、昔風のいわゆる長屋で、幼時をすごした。持ち家ではない。大家に家賃をおさめる店子(たなこ)の家で生を受けた。 生年は、1955(昭和30)年である。ようやくこれから高度成長がはじまろうかという時期であった。物心ついた頃にはまだ昔の暮らしぶりも残っていたと思う。

上下格差を世の中は認めなくなっていった

イメージ その1
高度経済成長期、日本人は格差の解消と民主化の進行に支えられ、豊かさを手に入れた。
1970年当時の四条烏丸界隈。

例えば、私の家にテレビはなかった。だが、幼い頃から見ていた記憶はある。大家の館には早くからテレビが置かれていた。店子の子どもたちはしばしば招かれ、それを見せてもらうことができたのである。今、近所にいる名望家の家へテレビを見に行く子どもはあまりいないだろう。そんなみっともないまねを、うちの子にはさせられない、と考える親が今は多数を占めている。テレビくらいは我(わ)が家にも置いておこうと、たいていの親は思うだろう。

また、名望家のほうでも考え方は変わってきた。近所の子どもにテレビを見せてあげるくらいは、自分たちの務めである。私たちは恵まれているのだからそれくらいは世間に心をくだくほうがいい、とそう考える富豪はよほど減っている。ひとことで言えば、今の世は民主化されたのだ。一握りの豊かな人々があまり恵まれない人々に施しをする。そんな上下格差を世の中は次第に認めなくなっていった。誰もが等しくテレビを家に置くほうがよいと、そう見なされるようになったのである。

民主化がテレビのセールスを変えた

イメージ その2

古風な格差社会の考え方が残っておれば、テレビの売り上げは膨らまない。受信機のセールスを大きくするためには、店子にもテレビを買わせる必要がある。うちは分相応に大家の館で時々見せてもらえばそれでいいという、そういう姑息(こそく)な庶民根性からは抜け出してもらわなければならない。そう、高度成長は、そんな心理のからくりにも支えられて羽ばたいた。店子たちが、うちも大家と同じようにテレビを持つんだと、思うように仕向ける。もう大家の館へ見せてもらいになんかいかないぞ、とうぬぼれるようにそそのかす。

テレビはそういう時代を経て、一家に一台広がった。よりいっそう売り上げを伸ばすにはどうしたらいいか。チャンネル権が家長ににぎられる状態を解体して、パーソナルテレビを売るしかない。事実、世の中はそうなった。家庭内でも進んだ民主化がテレビのセールスを変えたのである。

テレビに限ったことではない。あらゆる商品は、格差の解消と民主化の進行に支えられ、売り上げを伸ばしてきた。それこそが圧倒的な国民総生産の増大をもたらしたのである。その一方で、我々(われわれ)は名望家たちのノーブリス・オブリージュという観念を失った。様々(さまざま)な絆も断ち切られてきたと思う。経済成長が止まった今、あらためてそのことをかみしめたい。

きょうの季寄せ(九月)
十月や けさは鳶啼(とびなく) 藪(やぶ)の空 風芝(ふうし)

鳶の鳴き声を文字化した句に一茶(いっさ)の「鳶ひよろひいよろ神の御立(おたち)げな」がある。陰暦10月には出雲に神が集うと考えられ、いわゆる「神無月(かんなづき)」、一茶の神の御立はこのことを念頭においている。「鳶の笛」と音色を聞き做したのは近代俳人川端茅舎(ぼうしゃ)にて、10月は小春とも称し、掲句は小春日和の中、鳶の鳴き声がのびやかにいかにものどかな景である。
(文・岩城久治)

「きょうの心伝て」・15

国澤 知之 さん 元会社役員(京都市伏見区/70歳)

五感

日本に季節感がなくなった、と言われるようになって久しい。旬にしか食べられなかった食材は、今や養殖や冷凍でいつでも食べられる。落ち葉が汚いからと、街路の並木は紅葉の頃には枝を払われる。自然を自然のまま慈しむことに、私たちはいつしか不便すら感じるようになったようだ。

日本人の風流心が失われたと嘆くことはたやすい。しかし、本当に季節感はなくなったのだろうか。野を歩く自分の足音。例えば、秋から初冬にかけてなら、枯葉を踏みしめる音から、霜柱を踏む音に変わっていく。五感を精いっぱい働かせていると、気温や景色や食材以外にも、季節は実に様々(さまざま)なところに在(あ)るものだ。

なくなったのは季節感ではなく、実は私たち人間の五感を研ぎ澄ませた想像力のほうではなかろうか。科学の進歩に甘え、心を空虚にした。「感じること」を放棄したのだ。

我(わ)れ美しくと書いて「義」。義とは正しいすじみち。周りに流されず、自分を美しく律することで、本来の道を歩んで行けるのだと思う。

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