日本人の忘れもの 第2部

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京都発「日本人の忘れもの」キャンペーン第2部

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第27回 12月30日掲載 対談

京都型ビジネス
起業家精神旺盛で活気に満ちた都市

沓掛英二さん

野村證券株式会社代表執行役副社長
沓掛 英二 さん

くつかけ・えいじ 1960年、長野県生まれ。明治大政治経済学部卒業後、野村證券株式会社入社。厚木支店や福井支店、新宿野村ビル支店の支店長を努めた後、2004年には京都支店支店長に就任。執行役員、常務執行役員営業部門担当などを経て、12年8月代表執行役副社長に就任。

顔が見える範囲のつながりを大事に

村山裕三さん

同志社大大学院ビジネス研究科教授
村山 裕三 さん

むらやま・ゆうぞう 1953年、京都府生まれ。75年同志社大経済学部卒。82年ワシントン大よりPh.D(経済学)取得。野村総合研究所、大阪外国語大地域文化学科教授などを経て、現在は同志社大大学院ビジネス研究科教授。JR西日本社外取締役も務める。

イメージ その1
大正期、野村合名会社を大阪で創業した野村徳七は、本業の傍ら、日本の伝統文化の発展にも大きく寄与した。

沓掛◉2004年から3年間、私は京都に赴任していました。経済界や学者、伝統工芸・芸術などを中心に、きめ細かなネットワークにより人と人とが強くつながっている京都は、研ぎ澄まされた美的感覚や高度な技術が凝縮した、とても奥深い町だと実感しました。特に技術やおもてなしの分野において、とことん極める姿勢は半端でない。グローバル化の波にもまれ低迷を続けている日本経済にあっても京都企業の多くは際立って元気で、そして努力を惜しまないですよね。歴史的に何度も混乱に巻き込まれる中で、生き残れるすべを見極める力を営々と蓄積したDNAが、こんにちでも作用しているのでしょうか。京都を私なりに一言で述べれば「極める」とでもいったところでしょうか。

余談になりますが、京都の経済団体で講演をさせてもらったとき、「野村證券はおかげさまで80周年を迎えました」と言うと、会場の皆さんが「それがどうした」というような雰囲気になり、赤恥をかいた記憶が今よみがえりました。

村山◉100年以上も続いている企業がこれほど集積しているのは、世界を見回してみても、実は京都しかないんです。現在では150万人の人口を擁する大都市ですが、他都市と比較して、いまだに昔ながらの「ムラ」的な部分が残り、人と人との信頼関係を、なおざりにすると生きていけないのが京都です。これは経営学的にみると、信頼関係が企業活動に必要となる情報収集などの取引費用を低下させ、ビジネスが効率的に行われている都市ということになると思います。

欧米型のビジネスは競争原理で成立していますが、京都では異業種だけでなく、同じ業界内でも切磋琢磨(せっさたくま)しなが ら成長していく企業が多い傾向があります。社内でも、経営者と従業員の間で理念を共有することを重視するため、競合他社がまねのできない個性的な会社運営ができている。一方で、他の地域から来た人でも、懸命に頑張っていれば惜しみなく応援する。これらが、私の本『京都型ビジネス ― 独創と継続の経営術』にも書いた京都企業の特徴です。

沓掛◉確かに欧米や東京だと、有望なベンチャー企業が台頭してくると、すぐに合併や買収話を持ち掛けるところでしょうが、京都では、大企業の経営者が熱心にベンチャー企業を育てようとしていると聞きました。近年、人材の多様性、ダイバーシティーマネジメントが重要視されていますが、国籍、性別、思想等を問わず、どんな人であろうと、信頼関係をベースに若い人材を育てる風土が京都にはある。京都型ビジネスは、グローバル化がますます進む世界で特色あるビジネススタンダードになり得ます。また京都企業と呼ばれる多くの企業は、やみくもに経営規模を拡大したり、本社を東京に移すことには、あまり関心が少ない。それでいて世界の情報に敏感です。

村山◉京都人は基本的に、信頼関係をベースに、顔が見える範囲の人のつながりを大事にします。経営者は従業員にフェース・ツウ・フェースで接して経営し、やみくもに業容を拡大させません。経営者同士が意見、情報交換をするのにも、京都という都市の規模がちょうどよく、もちろん世界に通用する「京都」ブランドや品格も備えている。だから東京に本社を移さない。規模の拡大を目標にしないということは、売り上げの急拡大が期待できないわけですから、付加価値の向上を優先させ、世界レベルでシェアを高める独自性のある商品を開発する。これが京都型ビジネスの基本戦略です。

沓掛◉1922(大正11)年に野村合名会社を大阪で創業した野村徳七は、当初から京都に注目。お茶や能狂言をたしなみ、お客さまをもてなすため、南禅寺(東山区)の近くに、現在は重要文化財に指定されている碧雲荘(野村別邸)を建設するなど、日本の伝統文化発展にも寄与しました。京都人は、こうした社会貢献活動を熱心にしながらも、決して声高には言いませんね。

村山◉野村さんは、狂言の茂山家や、お茶の藪内家などを手厚く支援されたと聞いています。近年、企業のCSR(社会的責任)の重要性が問われていますが、京都の企業は昔から熱心に社会貢献をしているんですね。だから、CSRという流行の経営用語で質問されても、「そんなものはしてへんで」という答えが返ってくるだけです。企業として地域貢献をするのは当たり前すぎて、いまさら何を聞くんだという感覚ですから。

沓掛◉現在の日本は失われた20年と言われ、全てにおいて萎縮してしまっていると思えてなりません。京都のように、起業家精神が旺盛で教育、観光、文化など、さまざまな面で活気に満ちた都市に来ると特にそう感じます。落ち込んでいる時こそ、新しい夢や目標に向かって努力していくことが大切なのではないでしょうか。弊社も及ばずながら資本市場を通じた本業と、日本文化へのさらなる貢献に今後も精いっぱい努力したいと考えます。

きょうの季寄せ(十二月)
燕(つばくろ)の 巣も煤(すす)はいて やりにけり 雨篁

正岡子規は、次のような句も拾っている。「燕の巣をそこなふなすゝ払 画藤」(「分類俳句全集」)。

家屋から竈(かまど)が取り除かれて以来、煤で汚れることはなくなったが、年末の大掃除をして新年を迎える。

掲句は屋内にも自由に巣造りの可能な日本家屋の構造が見えてくる。 新しい年に燕が戻ってくることを願って人々は思いを尽くした。
(文・岩城久治)

「きょうの心伝て」・27

初田 太郎 さん 会社役員(滋賀県大津市/63歳)

時間と自然の恵み

職場で能登土産の「ころ柿」をいただいた。歯ごたえと食感が口に広がり、馥郁(ふくいく)とした甘さを味わいながら、子どものころ、親の目を盗んで食べた、正月の鏡餅に飾られた竹串の干し柿の味を思い出した。白い粉を噴き、くすんだ深いオレンジ色の硬い干し柿は、空腹を満たした。種を口の中で器用にはがし吐き出して食べる。干し柿の竹串が柿のヘタだけになると、正月は終わった。

5月に黄色い花を咲かせ、梅雨を迎え青葉を茂らせ、厳しい暑さをしのいで実り輝いた渋柿の実は、皮をむき、軒先や田んぼの棚に吊(つ)るし、強い寒風と乾いた空気の中で熟成し「ころ柿」となる。ゆるやかな時の流れと厳しい自然が逸品を作り出す。時間と自然が恵みをもたらすものが少なくなったが「ころ柿」は自然が育くんだ、天然のお菓子、先人が伝える滋味豊かな保存食でもある。

干し柿を鏡餅で見かけなくなり久しい。伝統の価値が失われる時代の中で、「ころ柿」の味は忘れ去られないだろうか。

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