日本人の忘れもの 第2部

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京都発「日本人の忘れもの」キャンペーン第2部

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第29回 1月13日掲載

寄り添う「個性」
急ぎ足の現代は他の個性との関わりを捨て、
自我を主張することに終始する殺伐社会を生みだします。

杭迫柏樹さん

指揮者
広上 淳一 さん

ひろかみ・じゅんいち 1958年、東京都生まれ。東京音楽大卒。84年第1回キリル・コンドラシン国際青年指揮者コンクールで優勝。ノールショピング交響楽団やリンブルク交響楽団の各首席指揮者、日本フィルハーモニー交響楽団正指揮者、コロンバス交響楽団音楽監督を歴任。東京音楽大学教授。2008年4月からは京都市交響楽団常任指揮者を務める。

イメージ その2

総譜(スコア)を眺めると、それは曼陀羅(まんだら)絵のように幾何学模様の集合体が織りなす神秘的な絵図のようです。その幾何学模様は万国共通の解き方があり、暗号を解読すると、空には心を動かす波動が表れ「音楽」になります。ただ機械的にこの暗号を解くだけなら何人が波動を作り出しても、全く同じ色、匂い、表情の波が作りだされるはずなのに、何故か謎解いた人物によってその波動の表情は全く違う。その理由は、その暗号たる幾何学模様を繋(つな)ぐ線の描き方は千差万別であるが故で、その音符を繋ぐ線の色、太さ、形を人々は「個性」と呼ぶのです。

先人の個性を尊重し、引き受けること

イメージ その1
オーケストラは隣人の個性を尊重し関わりあうことで、同じ方向に進むと、想像以上の波動たる音楽を作り出す。

芸術の世界では、この「個性」は尊重され、類のない新しい文化を作りだす原動力になります。他人から尊重していただく私たちの個性。逆に先人、隣人、友人たちの、こちらから重んじるべき個性。ただ現代は、自らの個性の押し売りに終始し、となりでほほ笑む人々の個性をないがしろにしているように思えます。「個性」の線は時間軸で図る「縦の線」と現在の時間を共有する隣人との「横の線」があります。

音楽を表現するとき、その幾何学模様の絵図の上に先人が繋ぎ続けた縦軸となる個性が生む背景や感情、無論、音符絵図を描いた先人の「個性」を最低限尊重し引き受けなければ、現代の私たちが持つ個性などただの無礼な振る舞い、神秘的な絵図に泥を塗るだけです。横軸たる現代個性の集合体オーケストラ。それぞれがぶつかり合うこともあるのですが、隣人の個性を尊重し関わり合うことで、同じ方向に進むと、想像以上の波動たる音楽を作り出します。

現代は「時」は速く、「間」が失われている

イメージ その2

楽譜には個性の関わり方が上手に描かれていて、尊重し合う指針となっているのです。縦軸で時空を超えた先人の個性を敬い、その意思を継ぐ。横軸で大小音域音圧の違う楽器同士、個性同士の互いを尊重し、邪魔をすることなく譲り合う。幾何学模様の絵図は、本来個性を重んじる人々が目指す理想社会の縮図だと感じています。

現代の時間は、「時」は速く、「間」が失われています。それ故、近年では「待つ」ということを忘れ、「待つ」時間の中に生まれる「想像する心」も失われてしまっています。想像は現在を読み、対人との存在や距離感を感じる大切な瞬間にほかならないのですが、急ぎ足の現代は他の個性との関わりを捨て、自我を主張することに終始する殺伐(さつばつ)社会を生みだします。これは、他の個性と同じ時間を共有することから生まれる「発見」や「共感」すら放棄している世界です。

昔の街かどでの一コマ。打ち水をするおばさまが通りがかったお隣さんに「どちらへ?」と声をかけますと、お隣さんは迷わず「ちょっとそこまで」と一言。明解ではないこの隣人の答えにでも、おばさまはすべてを含んだ微笑みを浮かべ「お気をつけて」とやさしく答える。この笑い話のようなこのたわいない会話の中には、些細(ささい)な関わりでも心の目で他人を見つめる、今失われつつある「個性」が寄り添い交差する姿があるのです。

きょうの季寄せ(一月)
舟慕ふ 淀野の犬や 枯尾花 几董(きとう)

淀川のかつて水運・舟運の盛んだったことを窺(うかが)わせる。

舟にいる人と川の辺の枯薄原にいる犬との親密な関係が伝わってくる。 日頃から餌を与えたり与えられたり、馴れ親しんでいるからこそ、こうして川と陸とに離れてしまうと、犬も淋しく舟を追っかける。

夏目成美に「犬吼(ほ)ゆる昼も淀野のしぐれ哉」がある。
(文・岩城久治)

「きょうの心 伝て」・29

木村 哲夫 さん NPO法人都草の会員(京都市下京区/77歳)

行儀悪いえ

「そんなことしたら、行儀悪いえ人さん見たはるえ」「神さん仏さん粗末にしたら、あかんえ、罰あたるえ」の言葉を日頃、祖父母などから言われ続けてきた、京生まれの京育ち。実はこれらの言葉が、嫌いで嫌いで仕方がなかった。

しかし、70代になって、京都検定の受験勉強をするうちに京都の良さを感じ、その良さとは何かを求めているうちに、言われてきた言葉が甦(よみがえ)ってきた。多くの人々が、祈り、願い、思いを込めて建立した寺社、そしてそれらを数百年、数千年の長い間守り残してきた場所は、聖域であり、これらの寺社を大切にし、最低限のマナーを持って拝観することを意識した。残念ながら、昨今は多くが観光寺院となり、観光客が参拝ではなく観光として見物する姿には、「行儀」も「神仏への畏敬の念」の気持ちは、全く感じられなくなっている。若者は無論のこと、大人もまた、これらの言葉を忘れ見物する姿を見て愕然とする、今日この頃である。

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