日本人の忘れもの 第2部

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京都発「日本人の忘れもの」キャンペーン第2部

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第31回 1月27日掲載

火の文化
偉大な火に対する信仰は洋の東西を問わず遍在する。
同じ火を使うことで同朋であると確信できた。

熊倉功夫さん

静岡文化芸術大学長
熊倉 功夫 さん

くまくら・いさお 1943年、東京都生まれ。東京教育大文学部卒業、同大学院修了。京都大人文科学研究所助手、筑波大教授を経て現在、静岡文化芸術大学長を務める。日本文化史、茶道史、華道研究に造詣が深い。主な著書に「寛永文化の研究」、「茶の湯の歴史」など。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大名誉教授、林原美術館元館長。

歌の詞ではないけれど、忘れられない、忘れたくない思い出が、ふりかえってみると人生の中にたくさん詰まっている。そんな思い出の一つが、たき火である。

子供のころ、年中、落葉やごみを庭で燃やしていた。わらで作られた俵など燃やせば、その残り火の中で焼き芋もした。火が勢いよく燃えると面白いからどんどん火を大きくすると、大人から危ないといって叱られた。火が消えたあとも、何度も見にいって本当に消えたか確かめさせられた。しらずしらずのうちに火の教育を受けてきた。

人類にとって火は最も大切な文化の獲得

イメージ その1
怖さと面白さが背中合わせになっている「火遊び」という言葉は、やがて死語になるだろう。

今、家の内外から火がなくなってしまった。火は危ないからなるべく生活の中から追い出すことが近代化であった。おかげでたき火の楽しさも火鉢で炭をおこす面白さも、遠い思い出になってしまった。火遊びといっても、怖さと面白さが背中合わせになっている言葉の感覚は、今の子供たちには伝えられない。やがて火遊びという言葉が死語になるだろう。

人類にとって火は最も大切な文化の獲得であった。ヒトがヒトとなったのは、火のおかげともいえよう。人類が火を常用するようになったのは60万年から80万年前といわれる。 照明としての火は、夜の行動を可能にしたし、野獣から身を守る術ともなった。冬の寒さも火のおかげでやわらいだことであろう。火の最も大きな恩恵は、食べものの世界を一変させたことである。人類は火を得て肉でも野菜でも柔らかくし安全に食べる事ができるようになった。寄生虫もばい菌も加熱することで死滅させることができた。

かろうじて火の文化を伝えているのは茶の湯

イメージ その2
イメージ その3
炭点前(写真提供:表千家)

火の周りに人が集まり心を一つにする。おそらく火が使われはじめたころは、発火させることがとても大変だった。だから燃えている火を消さずに守らねばならない。それは不在がちな男の仕事ではなく、炉の周りにいて仕事をする女の役目であったろう。女性と火の周りに人が集まりそれが家族となった。今でも常夜燈のように絶やさぬ火がある。聖火が消えぬようにリレーされるのも、太古の昔、集団が移動するとき、火種を大切に持って歩いた名残ではあるまいか。

偉大な火に対する信仰は洋の東西を問わず遍在する。拝火教の火も護摩の火も、鞍馬の火祭も、みな火の神聖なることを示している。同じ火を使うことでわれわれは同朋であると確信できたのである。同じ釜の飯を食う、というのは、同じ火で煮炊きすることに意味が半ばある。

こんな大事な、偉大な文化を危険だからといって捨ててしまってよいものか。

今、かろうじて火の文化を伝えているのは茶の湯である。茶の湯には、炭点前というのがあって、まず炭をおこし、下火をつくり、これに大小さまざまな炭を置きそえて、タイミングよく湯がわき、釜から松風を連想させるようなかすかにわきあがる音が聞こえてくるように、段取りをする点前である。しかもそれを客の見ている前でする。

日本人が忘れかけている火の文化が茶の湯に息づいているのを見てホッとするのは私だけではあるまいと思う。

きょうの季寄せ(一月)
寒雀 遊べばこゝろ 遊びけり 宮部寸七翁(すなお)

20日が大寒、きょうは寒の土用最中(さなか)の満月である。

寒気のために全身の羽毛をふくらませた雀(すずめ)のことを「ふくら雀」という季題もあるが、これはじっと枝などに止まっている光景である。

掲句は、鳴き交わし、飛び交い、雀の楽しそうな、片時もじっとしていない姿を見ていると、おのずから心の弾みを覚えるのである。
(文・岩城久治)

「きょうの心 伝て」・31

江見 可菜恵 さん 会社員(京都市中京区/25歳)

消えた商店街

実家のある地方都市へ帰ると、郊外型ショッピングモールへとよく買い物に出かける。車に乗り幹線道路を走ると、その道沿いには大型複合施設が立ち並ぶ。

私が子どもの時分は、駅の近くに軒を連ねた商店街に活気があり、電車に乗って2つ、3つ先の栄えている町へと友だちとよく買い物に出かけたものだ。それぞれの店には小さいながらも特徴があり、そして言葉では言い表せない温かみがあった。しかしその商店街も今は郊外のショッピングセンターに客足を奪われ、通りには人影が少ない。

私の郷里に限らず、他の地方都市でも同じように商店街がシャッター街化していると聞く。そのお店でしか手に入らない物、思い出の詰まった店内、あの時食べた味が今では懐かしい。今の子どもたちの思い出には、一体どんな店の姿が残るのだろう。幹線道路の上から大手チェーン店の看板が掲げられた四角い建物を眺めながら、どこか寒々しい思いがした。

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