日本人の忘れもの 知恵会議  ~未来を拓く京都の集い~

「忘」・書=森 清範 清水寺貫主 
写真=中田 昭

澤田瞳子

◉さわだ・とうこ
1977年、京都府生まれ。同志社大文学部卒、同大学院文学研究科博士課程前期修了。2011年、デビュー作である『孤鷹の天』で中山義秀文学賞を最年少受賞。13年『満つる月の如し』で新田次郎文学賞受賞、16年『若冲』で親鸞賞受賞。

日常に存在する「歌」。それは、過去と現在を結ぶ懸け橋

澤田瞳子
作家
澤田瞳子

私は歌が好きだ。カラオケやオペラのごとく、舞台や機械が必要な大掛かりなものではない。例えば子どもが歌う童謡、何気なく口ずさむ古い歌。日常に存在するそんな平凡な歌が、どうにも愛おしくて仕方がないのだ。
なにせ私は、中学高校時代はキリスト主義の学校で毎朝賛美歌を歌い、大学では能楽部に入って謡を学んだ。そんな中で、世にあまたある歌の旋律と言葉の美しさの虜となったのは、ごく当然のことと言えるだろう。
――朝に落花を踏んで相伴うて出で夕には飛鳥に随って一時に帰る
唐の大詩人・白居易は、友人とともに遠出をした春の光景を七言律詩に読み、やがてこれは日本に伝えられ、春日を歌う朗詠曲として平安の貴族たちに親しまれた。そして、さらに室町時代以降、この句は亡き友への思いを描いた能楽『松虫』のサシ謡として、広く人口に膾炙するに至るが、言葉をただ目で読み理解するだけではなく、声に出して歌えば、われわれはその瞬間、かつてこの曲を同じように歌ったいにしえ人と同じ体験を共有するに至るのだ。能楽は武家の式楽として愛され、歴代将軍の中には能楽を趣味とした人物も数多い。彼らは友をしのび、愛するこの曲をどのようにかみしめて歌ったのだろう。そう考えれば口から発せられた途端に消え失せる音楽とは、過去と現在を結ぶ、はかなくもつよい懸け橋とも感じられるではないか。
現代において、音楽はいつでもどこでも聞くことができる簡便な存在となった。しかしただ「聞く」のではなく、自らも歌を口ずさんでみればどうだろう。歌そのものは唇にのせた端から消えてゆくが、その旋律と歌詞は身体の奥底にしっかり刻み込まれるはずだ。
だとすれば、その音楽は決して失われたのではない。二度と再現することはできずとも、われわれの心を豊かに育む土へと姿を変えたのだ。
――菜の花畠に入り日薄れ見わたす山の端霞みふかし
こんな美しい光景をわが目で見たことはない。しかし、その旋律と飾らぬ言葉を歌えば、まだ見ぬ懐かしき情景がありありと浮かんでくるではないか。散歩の途中、お風呂の中などで歌を歌う都度、記憶の底からは懐かしいメロディーが次々と湧き出て、自分自身でも忘れていた懐かしい光景へ私を連れて行ってくれる。童謡の中に残る、古き良き日本の故郷、荒ぶる自然。京都の町なかに暮らす私はそれらの歌を歌うことで、自らの精神を遠く、懐かしき過去へとつなげ、日々の暮らしの中で失われたものを取り戻そうとするのである。

澤田瞳子

◉さわだ・とうこ
1977年、京都府生まれ。同志社大文学部卒、同大学院文学研究科博士課程前期修了。2011年、デビュー作である『孤鷹の天』で中山義秀文学賞を最年少受賞。13年『満つる月の如し』で新田次郎文学賞受賞、16年『若冲』で親鸞賞受賞。

シルヴィオ・ヴィータ

◉シルヴィオ・ヴィータ
1954年、ローマ生まれ。87年、イタリア国立ナポリ東洋大日本研究科哲学歴史学専攻博士課程修了(文学博士)。イタリア東方学研究所所長を経て、2012年、京都外国語大教授に就任。専門は思想史、文化史学、日欧交渉史。著書に『Buddhist Asia 1』『Buddhist Asia 2』など。

住民は日本のイメージを発信する重大な役目を担っている

シルヴィオ・ヴィータ
京都外国語大学 教授
シルヴィオ・ヴィータ

今から150年以上前の1885年12月。ヨーロッパの近代哲学を根底から揺るがしたドイツの思想家フリードリッヒ・ニーチェは、南フランスの町ニースで療養していた。そこから妹のエリザベートに宛てた長文の手紙の中で、奇妙な感想を伝えている。その時のニーチェの言葉を、私は年末年始を京都で過ごすたび思い出す。
ニーチェ曰く「より健康でかつ十分に金があれば、心の安らぎを手に入れるために日本に移住する」、そして、「私にはヴェネツィアが居心地がいい。なぜならば、あそこでは日本的なものに近づくことができる。 ヴェネツィアはそのための条件をある程度備えているのだ」と。この文章には当時ヨーロッパの人々が共有していたある種の概念が表れている。日本は美の経験ができる場所であり、心が癒やされるというイメージ。また、 ヴェネツィアも美しい町であり、かつ美術的な町である以上、日本的な感覚を備え付けている。19世紀の終わり頃、「世紀末」といわれた時代の人々にはこのような認識があったようだ。
だが、反発する声もあった。英国の劇作家であり詩人オスカー・ワイルドは、ニーチェと同じ1900年にこの世を去った、まさしく同世代の人である。1889年に発表された『嘘の衰退』という評論の中で、写実に文学の理念を据える考えを批判し、想像する力こそが文芸のエッセンスであると主張した。「偉大な芸術家には、ものをあるがままに見るような人は一人もいない」。美しいものを描写するには「見る目」が求められるのだ。ワイルドは続ける。「美術を介して我々に紹介されている日本の人々は本当に存在していると思うか?(中略)実をいうと、日本のすべては想像にすぎない。そういった国もなければ、そのような人間もいない。(中略)私がいうように、日本人とは様式の形体、芸術の素晴らしい幻想である」。当時、競って鑑賞され、19世紀の美術に多大な影響を与えた浮世絵などに描かれた世界こそが芸術であり、現実世界のことではないとほのめかす。
以上の幻想は、まさにクール・ジャパンということばに置き換えても差し支えないであろう。日本が人を引き寄せる力は150年たっても衰えない。現在は日本への旅も簡単になり、それが幻想か現実かは自分の目で確認できる。京都では特に、そのような目的で海外からやってくる人たちが日常生活の一部となった。日々世界の人と触れ合い、住民は日本のイメージを発信する重大な役目を担っているのではないかと、新年を迎えてふと思う。

シルヴィオ・ヴィータ

◉シルヴィオ・ヴィータ
1954年、ローマ生まれ。87年、イタリア国立ナポリ東洋大日本研究科哲学歴史学専攻博士課程修了(文学博士)。イタリア東方学研究所所長を経て、2012年、京都外国語大教授に就任。専門は思想史、文化史学、日欧交渉史。著書に『Buddhist Asia 1』『Buddhist Asia 2』など。

高木正勝

◉たかぎ・まさかつ
1979年、京都府生まれ。12歳よりピアノに親しむ。19歳より世界を旅し映像作品を作り始める。2001年、アルバム『pia』をニューヨークより発表。『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』、スタジオジブリを描いた『夢と狂気の王国』など数多くの映画音楽やCM音楽を手掛けるほか、国内外でコンサートや展覧会を開催している。

日々、季節が移り変わっていくように身体や心も生まれ変わる

高木正勝
音楽家・映像作家
高木正勝

山あいの小さな村で暮らし始めて4年が経ちました。村の入り口にはお地蔵さんがあるのですが、前を通る時には「あっ」と小さく声に出して手を合わせるようにしています。これは、96歳になるトオちゃんから勝手に引き継いだ習慣です。トオちゃんはお稲荷さんや毘沙門さんなど、大切な場所の前を通る時に必ず「あっ。今日もありがとうございます」「あっ、今日は若いもんに車に乗せてもらってます」と目を閉じながら友だちのように話し掛けるのがとても素敵で、こっそり真似をするようになりました。
村のお山のてっぺんには稲荷神社がありまして、月の終わりに当番が掃除に上がることになっています。先月はうちが当番でしたので、こんもり積もった落ち葉を掃きながら山を登りました。山ですので、落ち葉が積もっているのは自然なことなのですが、なぜでしょう、地面の土が見えるまですっかり掃ききってしまうと、さっきまで山道だったのが、まさに参道だと思える姿に変わりました。不思議です。お母さんの中にある道も「産道」と呼びますが、身体の中に通っている道を掃き清めているようで嬉しくなってきました。てっぺんにあるお宮を雑巾で綺麗に拭いて、柏手を打って手を合わせていると、空を突き抜けて天と繋がったような心になりました。
12月には「山のかみさま」という行事がありまして、早朝、真っ暗闇な山の中に男だけで集まって、真っ白なうるち米のお餅を食べます。お餅は稲わらで作った入れものに包み込んで持っていくのですが、その稲わらの包みがなんとも女性らしい形で、そこに真っ白なお餅を入れると、命のはじまりのような、そんなもののような気がしてきます。それを暗闇の山の中で焚き火に照らされながら食べるのですから、魂を身体に入れるようなそんな厳かな気持ちになります。村のおじいさんたちに由来を聞いても「前の人がやっとった。先祖がやっとった」とのことで、今となっては何がどうなってこうなったのか分かりません。でも、意味を追わなくても、その行為をやり終えた後には面白いことが起こります。ただただ、心が真新しくなります。
毎日毎日、季節が細やかに移り変わっていくように、僕たちの身体や心も日々生まれ変わりたいのだと思います。朝目覚めると、山の向こうから昇って来た太陽が、順番に辺りを照らし始めます。その暖かい光が自分に届いたころ、もう既に新しい自分が始まっているのだと、そう思います。

高木正勝

◉たかぎ・まさかつ
1979年、京都府生まれ。12歳よりピアノに親しむ。19歳より世界を旅し映像作品を作り始める。2001年、アルバム『pia』をニューヨークより発表。『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』、スタジオジブリを描いた『夢と狂気の王国』など数多くの映画音楽やCM音楽を手掛けるほか、国内外でコンサートや展覧会を開催している。

田中恆清

◉たなか・つねきよ
1944年、京都府生まれ。69年國學院大神道学専攻科修了。平安神宮権禰宜、石清水八幡宮権禰宜・禰宜・権宮司を経て、2001年石清水八幡宮宮司に就任。02年京都府神社庁長、04年神社本庁副総長を務め、10年神社本庁総長に就任。

日本古来の伝統文化を継承し
「和」の心を実践していく

田中恆清
石清水八幡宮 宮司
田中恆清

古来、日本人は「和」の心を大切にして、日々の生活を営んできました。「和」の心とは自分勝手な考え方や行動を慎み、他人の意見や立場を尊重して謙譲の精神を以て行動していくことであります。
記紀神話(古事記・日本書紀)には、天の石屋戸に天照大御神が隠れられ、国中が暗闇に覆われたとき、八百万の神々が「神集」をして集まられ、次に「神議」をして、つまり皆で話し合いをして解決策を探された様子が記されています。神々のご事績にも記されるように、皆で集まり話し合いを行い重要な事柄を決めてきた「和」の心は、日本古来の伝統精神だと言えます。
地震や台風等の自然災害の被災時における日本人の助け合いの精神の根底にも、古くより培ってきた他者をいたわり思いやる「和」の心が流れているはずです。
然しながら戦後の日本人は、自らの「個」の確立に躍起になり、他者を軽視して「公」への奉仕を蔑ろにしてきました。行き過ぎた個人主義は、「自分さえ良ければそれでよい」という思想を拡散させ、日本人の有してきた「和」の心を衰退させてきたのではないでしょうか。
縄文の時代より現代に至るまで、日本人は鎮守の杜に集まり、皆で協力して神々への祭祀を行い、自然の恵みに感謝しながら共同体での生活を慎ましやかに営んできました。今後地域の共同体が崩れていくことは、伝統ある神事が疎かになるのみならず、他者への思いやりや優しさなど、人と人とを結ぶ心までをも離れさせていく可能性があります。
日本には海の幸、山の幸と称されてきた四季折々の美味しい食物があり、自然の風景の移り変わりがあります。そのような美しい風土の中で、自然への畏敬や感謝の念が涵養され、五節供をはじめ伝統ある年中行事や、神々への祭祀が行われてきました。共同体への帰属意識が弱まり、他者との繋がりが希薄となっている現代こそ、日本古来の伝統文化を継承して、「和」の心を実践していく必要があると考えます。
京都は、由緒ある神社や寺院が数多あり、世界でも屈指の伝統と精神文化を誇る都市でもあります。あらゆる日本文化の濫觴の地として、受け継いできた伝統を次代へと護り伝え、これからも日本の心を世界に向けて発信していく役割を担っていただきたいと願っております。

田中恆清

◉たなか・つねきよ
1944年、京都府生まれ。69年國學院大神道学専攻科修了。平安神宮権禰宜、石清水八幡宮権禰宜・禰宜・権宮司を経て、2001年石清水八幡宮宮司に就任。02年京都府神社庁長、04年神社本庁副総長を務め、10年神社本庁総長に就任。

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